夜明ケ前。外ハマダ暗イ。思イハ未来ヘト焦ル。思イ出ハ過去ヲ膨ラマス。ダケド。ココニハ今シカナイ。今シカナイ。
真実と記憶の狭間
2008-04-29 Tue 23:55
このブログに検索でアクセスしてくださった方の多くが「本谷有希子 トップランナー」、「月イチゴロー」、「秒速5センチメートル 壁紙」の3つのキーワードからの来訪ということを以前書きましたが、久しぶりに忍者のアクセス解析を覗いてみると、その傾向は未だ変わらず、しかしながら「秒速5センチメートル 壁紙」の全体に占める割合がかなり増加していました。「秒速5センチメートル」のDVDが発売されたのが去年の7月。去年5月に本谷さんが出演されたトップランナーの情報を求めて来られる方の数が下火になってきたのにも関わらず、依然として「秒速5センチメートル」の壁紙人気は衰えず。と勝手に自分のブログアクセス解析だけの情報から判断するのは無謀な話なんですが。(^^;)
こんなにも「秒速5センチメートル」の壁紙の需要があるという事柄は、自分にだけ分かった事実ではないかとちょっと嬉しくなってみたり。
p080429_kabe(一時期ノートパソコンの壁紙は、「秒速5センチメートル」の壁紙にしていたのですが、ちょっと前から「鹿男あをによし」の壁紙に変更中。)

それだけ根強くみなさんの興味を惹く「秒速5センチメートル」とは如何に。ちょっと気になり始めた頃にラジオの映画紹介番組の中でレンタル店の店長がインタビューに答えて「秒速5センチメートル」をお勧めされていたのを聴きました。これは一度レンタルして観て見るしかないと思い、ようやく先日この作品を見るに至りました。

以前の記事は、この映画の予告編と主題歌「One more time, One more chance」ミュージックビデオの映像だけを見て、それに対する感想を書きました。だから本編を観る前は、よく映画の予告編がインパクトのある映像を集めて編集されているが故に、期待して観に行くと拍子抜けしてしまう事があるのと同じように、予告編用に“絵”になる映像だけを凝縮させているのかなという考えが少し頭を過ぎりました。

しかし、観始めると見事にその懸念はどこかに飛んでいきました。全編に渡りどこを切り取って壁紙にしてもおかしくないというような美しい映像の連続。そして、映画の中の駅の構内、学校の教室、緑の生い茂る海沿いの道、雪化粧をした町角、どの何気ないシーンも自分の経験から深層心理に刻み込まれている風景と驚くほどに親和性があり、心に突き刺さるような心地よい痛みを残していきました。ここまで自分の中に持っている景色の記憶を刺激する作品は、実写でも他のアニメでも中々無いんじゃないかと思います。(大げさ!?)

今回、映像を観て美しいと感嘆すると同時にリアルだとも感じました。日常の中にある風景でこの2つの感覚の共存を味わえるのが、この映画の大きな魅力の一つではないでしょうか。

巻末の新海誠監督のインタビューの中で、映画製作の上での一環したコンセプトとして、「実際の風景を写実的に画くわけではなくて、記憶の中の風景を描きたいというのがある」と仰っていました。
人は物事を主観の混じった印象として捉えている。普段の生活の中では、実写の風景から脳の中で何らかの変換がなされて、心に届いてくる風景は実際とは少し異を成しているはず。では、脳の中での変換経路を省いて、その心に映る風景をダイレクトに観客に提示した時、人の心はどういう化学反応を示すか、これは新海監督の壮大な実験ではないかと思えてきました。新海監督は、その心の中にある風景を作り出す秘密の一つとして、描く密度を少なくしていると明かされていました。実際の脳の中でも同じような工程が踏まれているのではないかと思ったり。

僕は大学生の時、街の中心から少し離れた小高い丘の斜面に位置するアパート、南向きの部屋に住んでいました。その部屋で友達数人と夜遅くまで飲んでそのまま雑魚寝し、次の日の朝方、目覚めた時に窓から眺めた景色が今でも忘れられません。もう本格的な夏が間近に迫っていたその季節。朝日は一年でも最も早く昇り始め、街はまだ眠っているかのような静けさを保っているのに、朝靄が微かに残るなか十分な光量がすでに東の空から降り注いでいます。空気は涼やかで気持ちの良い風が部屋に流れ込み、近くの住宅街、遠くに見える高いビルの群れ、公園の緑、それらが新鮮な朝の光を浴びて瑞々しく輝いていました。植物の葉に宿る朝露が黄金色を纏うように。大きく深呼吸したくなるような爽快感がそこにありました。

その窓から見える光景を何故写真に収めなかったのか、チャンスはいくらでもあったはずなのに。。と今でも後悔する気持ちが時々顔を出すのですが、「秒速5センチメートル」に出てきた2つのシーンを連続して目にした時に朧げになりつつあるあの時の光景がハッキリと蘇ってきました。あの時の空気と共に。眺めていた景色は下に貼り付けた1枚目のような感じで、光の加減は2枚目のような印象でした。


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しかし、もし写真に収めていても、今の自分の記憶の中にある風景とは違っているかもしれません。その写真に写っている現実を見て、もしかしたらあれは幻想だったと落胆するかもしれません。記憶の中だけでいつまでも輝き続ける風景、記憶の中だからこそ美しさを保ち続けることが出来る風景。
それは、その時の気温や湿度、空気の動き、何処からともなく聞こえてくる音、そして自分を取り巻く状況(例えば将来への希望や不安だったり、友達との関係だったり)を加味した気持ちの有り様、それらと連動した感動が実際の風景と混じり合った後に浮き出てくるものだから。

監督は、実際ロケされた所に行っても映画と同じようには見えないと仰っていました。色が淡く柔らかになり、遠くは霞み、光を増すことによって情報量が減らされている。しかし、それを見ている者はリアルだと受け止める。それは頭の中にリアルだと感じる根拠となるいつかの風景の記憶が個々にあるからだと思うのですが、実際に見た風景からその時点での脳内変換に加え、ある程度の時間経過による変化が起こり、映画の中にあるようなタッチの映像に近づいていくのかもしれません。そして、現実に体験した風景と共に結びついている感情もまろやかに、深淵に変容していて、映画を観ることでそれが無意識に呼び覚まされる。だからこの映画の映像を観ているだけで心地良くなるのではないかなと感じました。

新海誠監督作品独特の青や紫、白、オレンジの茫とした光の加減や色合いから、タケシマさんのブログにアップされている写真を連想しました。

タケシマさんの写真ブログ・「金魚ノ宙」

そこにある写真は、撮影技術によって実際に見える景色とは異なっていると思われますが、記憶の何処かにあるような、夢の中で観たような不思議な真実味や実感を伴って訴えかけてきます。人間の目にはそう見えないだけで、タケシマさんの写真に写った光景もこの世界に紛れもなく存在している真実の風景であると教えてくれている気がします。
そうすると人の意志を介した新海監督の映像も、写実的ではないにしても実は真実を描き出していると言えるのかもしれません。


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何を言いたいのか混乱してきました。(汗)

P.S この作品を借りにレンタル店に行った時、“5本で1000円”という張り紙が目に入り、折角ならと貧乏性意識が出て「秒速5センチメートル」以外に「笑の大学」、「天然コケッコー」(ラジオでパーソナリティーが、“天然コケコッコー”って言ってた。気持ちは分かる。笑)、「大日本人」、「ヒカルの5」をなんとかかなりの時間をかけ無理やり選び出しました。何を借りるか決めていなくその場で見たいものを選ぶのがこんなに難しいとは。^^; 後から、ハズレがなくて自分でもビックリしたのですが。
何を選んでも良かったのに結局、ライブDVD「ヒカルの5」以外全部邦画。自覚なしに邦画のコーナーに引き寄せられていて、改めて自分は邦画が好きなんだと気付かされました。僕の中で邦画の勝手なイメージとして、「箱庭的小ぢんまりした扱いやすいサイズであり、それ故細かい所まで気配りが行き届いていて奇麗に整えられまとまっている」というのがあります。作品から滲み出ている日本的な美的感覚が心地いいのかもしれません。良く出来たミニチュアを眺めている時のような。(特に三谷幸喜監督の作品にはそれを強く感じます。)

秒速5センチメートル 通常版秒速5センチメートル 通常版
(2007/07/19)
水橋研二、近藤好美 他

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砂時計が刻むストーリー
2008-04-17 Thu 21:38
p0804174月26日に公開されるいきものがかりが主題歌を担当した映画『砂時計』。主人公の女性を大人時代・松下奈緒、中高生時代・夏帆が演じています。
あるラジオ番組の映画コーナーで少しストーリーを紹介していて聴きかじった所、かなり切なくていつまでも頭に残り続けました。
そこでこの映画の公式サイトできちんとしたあらすじを読んでみることに。

映画・『砂時計』公式サイト

話の展開に合わせて6つに分けられたストーリー説明が丁寧になされているのですが、もう映画のオチ寸前までそこに書かれているような気がしました。(実際にはどうか分かりません。)

僕はこの映画を見に行く予定がないので、躊躇することなくすべて読み終わると、映画の内容が凝縮された「Story」に思わず涙をこぼしていました。一つの読み物としてよく練られた短編小説でも読んだ感覚でした。映画の宣伝に於いてここまで事細かくストーリーを明かしていて、それだけでここまで泣けて満足できた体験に、ちょっと驚きました。思わぬ出会いにちょっと得した気分。お勧めです。

世の中には宣伝が足りないことにより、世間に知られる前に上映期間が終わってしまう映画が沢山あると聞きました。日本映画が好調といえども映画業界には格差社会に似た構造が生まれていて、お客さんが入る映画と入らない映画の差が拡大し、深刻な問題だと受け止められているようです。
「この映画を見に行こうというキッカケ」を効果的に作り出さなければならない宣伝では、その要素の一つと成り得る“ストーリー”を最大限生かして映画を魅力的に捉えて貰うために、限界ギリギリの所まで話の流れを出さざるを得ない現実的な状況というものがあるのではないかと考えたりしました。

事前情報・先入観なしに映画を観るのが一番なのかもしれませんが、映画館まで観に行こうと判断させるだけの十分な情報がないと何も始まらない訳で、その境目の線引きが難しい所なのかもしれませんね。

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〜新着記事の旅〜
2008-04-14 Mon 21:22
諸事情によりブログが更新出来ず、とうとうこのブログにも1ヶ月放置した代償として広告記事が表示されてしまいました。緊急処置として、以前書いて掲載しようかどうしようか迷っていた記事をアップします。すみません。


暇な時や眠れない時、FC2ブログトップページにある新着記事一覧からフラッといろんな方のブログを探索するのが密かな楽しみです。

“新着記事”からというのが大きなポイントで、自分の意図した検索や自分の書いた記事関連のタグなどからではなく、“たまたまその時間に更新された”という繋がりだけの偶然の出会いというか一期一会を味わえます。星の数あるブログの中から絶対目にすることのなかったであろうブログに辿り着ける期待があるのかもしれません。

最近、そんな楽しみにも支障が出てくるようになりました。

僕は元来、「鹿男あをによし」に出て来る小川先生のように少々神経が過敏というか細い所があったのですが、最近その傾向に拍車がかかってきたようなのです。日常生活まで影響が及び・・・。
例えば、お店に行って一万円札を出す時に、万が一2枚重なっていたらどうしようという不安に駆られるが、店員さんの手前控えめに確認するため、店を出た後もその疑念が抜けない。どれだけセコイのかっていう話ですが。(笑)また、外で財布を広げお札を取り出した時、同時にカードか何かを落としたんじゃないかと、何度もその場に戻って確認せずにはいられない。そんな自分が嫌になって空を見上げ、一つため息をつく。
他に、道路上にカメラが設置してある場所を車で通った時、ちょっとスピードが出過ぎていたかもと思い始めると、オービスに引っかかって3ヵ月後に罰金請求が来たらどうしよう・・・と、2、3日ビクビクして過ごす。。など等

こんな時は、小さな不安が不安を呼びどんどん雪だるま式に増殖していく現象が起こります。

そんなこんなで心配病にかかっていると、コンピューターウィルスが怖くて新着記事を気軽に訪れることもおちおちできなくなります。

すると最近いつも拝見しているブログにこんな記事が。。

『FC2ブログを利用してウィルス配布している馬鹿なやからがいる』(ホームページを作る人のネタ帳)

この部分の心配だけは取り越し苦労ではなかったようです。(笑)

とは言ってもおそらく99パーセント以上が良心的なブログなわけで、猜疑心ばかり大きくなっても悲しいだけですよね。^^;

新着記事一覧の中でどのブログを訪れるかは、ブログに付けられているタイトルが自分の琴線に触れるかどうかだけで決めるのですが、ブログタイトルだけを眺めていても結構面白く、センスの光る詩的なタイトルがあったり、ユーモアの詰まったものだったり、その人の生き様、根底にある想いが反映されているものだったり。

そして実際訪れたあと真っ先に注目するのが、どんなテンプレートデザインなのかということ。FC2は、用意されているテンプレートの数の多さとカスタマイズの自由度の大きさが売りなので、自分の思い描くブログのカラーを打ち出しやすいですよね。だからその分訪れる楽しみも大きくなります。
ブログは今や、最も手軽でしかも無料でプチ空間プロデュース(ちょっと大げさ?)が実現できる場だとすると、デザイン・レイアウト的に細部まで気配りが行き届いた丁寧な仕事がなされている統一感やブログのタイトル・内容と連動した統一感、などがあるテンプレートに出会った時は、テンションが上がります。
そんな“整った”テンプレートの場合、まず眺めているだけである種の気持ちよさがあり、そのブログ自体から醸し出される様々な雰囲気や世界観に雑念の余地なくまっさらな心境で浸ることが出来ます。自ずとそこで表現されている写真や文章もブログデザインで作り上げられた一つの世界の中で、深い印象や柔らかい印象、幻想的な印象、論理的な印象など全く違った感慨を帯びてこちらに訴えかけてきます。意識しなくても否応無しにテンプレートの持つ色の影響を閲覧者が受けているというのは面白い所です。その点でFC2ブログは他のブログサービスと比べてブログ提供会社のロゴや広告の表示義務などの制約が無いに等しいから、その世界観を壊す不要な雑音が少ない事が大きな利点と言えるかも。
一つ一つのブログに強い個性があり、そこには管理人さんのセンスやこだわりが凝縮されていて、一つの画面で色んな空間に連れて行ってくれるブログという場所。それを多数の人が気軽に獲得できる環境になった事は、今更ながら凄い時代だなぁって思います。

そんなこんなで、“新着記事の旅”では、もちろん、そのブログの中で表現されている作品を散策する楽しみもあるのですが、まずノックして扉を開いたときにパーッと広がっているブログ風景を目玉に据えているのでありました。その繋がりで、毎日管理画面で更新されている共有テンプレートでどんな新しいデザインが追加されたかチェックするのが日課なのは言うまでもありません。^^

“新着記事の旅”に様々な彩りを添えてくれるオリジナルテンプレートを提供してくださっている有志の方々には感謝の念でいっぱいです。

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『恋する惑星』と『マイ・ブルーベリー・ナイツ』と春の風
2008-03-15 Sat 22:10
p080315_11またこんな季節がやってきた。前回「恋する惑星」を観たのは、去年の春。ブログを見返すとちょうど1年前の今日、記事を書いていた。冬の緊張が和らぎ春の気配がする頃。また「恋する惑星」を観たくなる。

何故だろう、この映画を薦められて初めて見たのが春だったから?ちょっと潤いのある春の空気が周りに漂い始めると、この映画の世界と自分のいる世界がリンクしやすく感じているから?

更にこの映画が似合う時間帯があるとすれば、宵の時間だったり、東の空が白み始める夜明け前だったり、変化の余韻や予感を辺りに留めている時間。何かの中間。境目が曖昧で、何処か浮遊している感覚があり、繊細で直ぐに消え入ってしまいそうな映画全体を覆っている幻夢のような香りを受け取る感度が増すから?

太陽が沈みかける頃、窓をいっぱいに開けて春の甘い匂いを部屋の中に入れる。冬の寒さとは違う、初春の冷たさにこれから訪れる夏への懐かしさ感じながら、僕は恋によって駆動すると言われる惑星を動かし始めた。

恋の期限は、缶詰の期限と重ね合わせられ、恋の行方は飛行機のフライトになぞらえられる。

登場人物たちは、春の宵を颯爽と駆け抜けていくようなイメージが浮かぶ。まるで地球によく似た全く別の惑星にある街の片隅を覗いているよう。そこには一万光年のタイムラグ。彼らの時間が流れ、彼らにしか見ることの出来ない取り巻く世界の美しさがあるのではと思えてくる。

この映画で一番好きな台詞がある。フラれた刑事モウ(金城武)が一人失恋祝いをした後、明け方にフラッとバーに入る。

「“愛は夜明けに終わる”、そんな歌の心境だ。メイを忘れたい。僕は自分に言いきかせた。――」

「――今度入ってきた女性を好きになろう。」

この映画に登場してくる人たちはみんな、普通は大人になるにつれて失っていくはずの汚れを知らない純粋さを持ち続けている。
刑事633号(トニー・レオン)が、石鹸やぬいぐるみ、タオルを人格化して話し掛けることも、
刑事モウが「失恋すると涙を蒸発させるためにジョギングをすると良い」と信じていることや、「“記憶の缶詰”に期限がないといい、あっても一万年ならいいが・・・」と願うことも、
フェイ(フェイ・ウォン)が大きな音で音楽をかけているのは、いろいろ考えなくて済むからということや、刑事633号の部屋へ勝手に忍び込み自分好みの部屋へ変えてしまうことも、
すべて、自然体で自分のストレートな感性、直感に従い、運命に逆らわない天性の無欲さ、謙虚さ、無邪気さ、そんなようなものが彼らの中にあるからではないかと感じてしまう。星の運行を支配している見えない力、それに従って廻っている惑星の上で、不思議な因果に寄り添いながら暮らしている人たち。それらが刑事モウの台詞の中に凝縮されている気がする。
自我(エゴ)を捨て、流れに身を任せながら軽快に人生を泳いでいく。そうすることで見えてくる新たな風景がある。過去にそんな経験は殆どなく、自分には中々出来ないことだから、「恋する惑星」に生きる登場人物に憧れを抱くのかもしれない。新たな風景にも、そこに生きる人たちにも、優美さや爽やかさがある。春の宵に吹く南風のような。。


初めて出会って衝撃を受けた作品があると、僕はそれと同じような作品を何処までも追い求めてしまう傾向がある。宮崎駿監督作品であれば、「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」。新作が出てもそれが自分の思い描く理想と違えば、どんなにいい作品であっても渇望感は消えない。たとえそれがファンのエゴだったとしても。たとえそれがアーティストが最も嫌うことだったとしても。
“あれと同じような作品”というのは、もしかしたら存在し得ないのかもしれない。しかし、ウォン・カーワァイ監督作品には、“「恋する惑星」のような映画”をいつまでも待ち望んでしまう。

p080315_3そして、月日は流れ、今月3月22日(土)、「マイ・ブルーベリー・ナイツ / MY BLUEBERRY NIGHTS」が公開される。この作品には根拠は全くないけど何処となく「恋する惑星」と同じ匂いがする。

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のテーマは、「旅と距離」。アメリカを舞台に新たな愛の側面を描く監督初の英語映画。普通のラブ・ストーリーに見られるような2人の人間が対峙する単純な構成ではなく、逆に2人の物理的な距離を広げつつ、美しい台詞で心の距離を丁寧に埋めていくという構成。ブルーベリー・パイをモチーフに苦い失恋から出発した旅を、甘い恋の予感で締めくくる、とのこと。

◆あらすじ◆

「失恋した私にもう一度恋をする勇気をくれたのは、あなたのブルーベリー・パイだった。」
恋人の心変わりで失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)は、彼の家の向かいにあるカフェに出入りするようになる。店のオーナー・ジェレミー(ジュード・ロウ)と話すことで自分を慰めようとするエリザベス。ジェレミーは彼女のために、毎晩ブルーベリー・パイを残しておくようになる。
2人の距離が縮まってきたかに思えたある日、エリザベスは突然、ニューヨークから旅立つことを決意する。失恋から57日、ニューヨークから1,120マイル、メンフィス。失恋から251日、ニューヨークから5,603マイル、ラスベガス。
そして、旅立ってから半年後、ジェレミーの元に1枚のハガキが届く。
「あなたのブルーベリー・パイは世界一おいしい。」
ジェレミーはエリザベスを探し始めるのだが・・・。

◆映画の誕生◆

僕は、ウォン・カーウァイ監督の切り取るアジア独特の空気が好きだったので、どうして今回はアメリカなのかなと思っていたら、それには明確な理由があったよう。

監督:「『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のストーリーは、『花様年華』の短編版に由来しているんだ。6分の短編で『花様年華』に入るはずのストーリーだったんだけど、そのストーリーがとても気に入っていたので、そこでは使わず、ここで使うことにしたんだ。リメイクではなく、広げていく形でね。当時ノラ・ジョーンズと仕事をしたかったから、今回アメリカで映画を作りたいと思った。特に英語で作ろうと思っていたわけじゃないんだ。ただ、主演のノラ・ジョーンズに中国語で話せとは言えないからね。(笑)このストーリーはノラにとてもよく合うから、ニューヨークを舞台に英語で撮影してもいいかもしれないと。」

p080315_4では、監督とノラ・ジョーンズの出会いは・・・、

監督:「実は、ラジオを通じてノラの存在を知った。数年前、映画『2046』のプロモーションを兼ねて台北を訪れていた時、夕方6時くらいにテレビ局に行く途中、タクシーのラジオからノラ・ジョーンズの曲が流れてきた。そこでまず彼女の声を聞いた。渋滞に巻き込まれて、車中何もすることがなかったが、台北の夕景がブルーに染まってとっても奇麗だった。そんな夕焼けを見ながら、ノラの声が唯一の仲間のような心境になっていた。その声がとても官能的でシネマチックだった。かかっていた曲は『Come Away With Me』。ある少女が街を歩いていて、誰かを待っている、というような景色を自然と想像していた。すると、その日の夜、ちょうど同じホテルにノラもワールドツアーで滞在していたことに気付いた。その時はお互いを知らなかった。そんな偶然というか運命の巡り合わせもキッカケとなり、改めて彼女と会いたいと思い、1年後ニューヨークでスケジュールを調整して会うことになった。」

元々は映画音楽を作って貰おうと思ってノラに会った監督。しかし話をしているうちに、彼女が映画にとても興味を持っていること、そして監督の作品(『花様年華』)を痛く気に入っていることが分かっていく。更に、彼女の自然でのびのびとした魅力が映画に向いていると感じる。そこで是非本人に主演して欲しいという気持ちになり、「出演してみないかい?」とノラに聞いてみたそう。彼女に出演依頼したのは、至極自然な流れだったという。
ノラを起用した一番の理由として監督は、魂のこもった彼女の歌声に魅せられたからとも語っている。

「彼女の声は非常に映画的だと思う。素晴らしい楽器のように、様々な表情を持っているからね。目を閉じ彼女の声を聞いているだけでも、そこからストーリーを感じとることができる。そして、都会をさまよう女性を連想させる。それでこの映画が出来ると思った。」

例の「花様年華」用だった短編は、元々真夜中の香港のダイナーで起きる物語。だから今回の映画冒頭部分のダイナーの中で起こったことしかカバーしていない。監督らはそれを膨らませ、ダイナーからT・ウイリアムズの小説を彷彿させる街・メンフィスへ、そして街自体が映画のセットのようで昼と夜全く違った顔を持つ特殊な街・ラスベガスへと物語にアメリカを横断させた。
監督は、旅に出ているアーティストとしてのノラ・ジョーンズのスタイルからインスピレーションを受け、距離をテーマに、旅をベースにしたラヴ・ストーリーを考えたという。

「ノラのスケジュールを見ると、わずか8週間しか空いていなかった。(今回の映画の撮影期間は、2ヶ月。)だから脚本を書くにあたり、限られた時間で何ができるかと考えていた。彼女は有名なミュージシャンで、一年中ツアーでさまざまな場所を訪れている。それならば、彼女が親しんでいる"旅"というシチュエーションで映画を作ろうと思った。」

◆撮影◆

これまで、ウォン・カーウァイ監督デビュー作「いますぐ抱きしめたい」以外すべての作品の撮影監督を務めてきた映像作家のクリストファー・ドイル。スローモーションや手持ちカメラを用いた躍動感あふれる映像として知られ、ウォン・カーウァイ作品独特の濡れたガラス板に光が反射しているようなしっとりとした映像が魅力的だった。
しかし、今回は、ダリウス・コンジ(映画「セブン」、「デリカテッセン」、「ロスト・チルドレン」などの撮影を担当)がカメラを取った。 これまでの映像表現がどの程度踏襲されているのだろうか。

◆脚本◆

初め、脚本家として映画界デビューしたウォン・カーウァイ監督。(香港のテレビ局で脚本家としてキャリアをスタートさせた後に、プロデューサーに映画を作ってみないかという打診を受けて監督に。)これまでの作品で脚本を手掛けてきたが、今回は、英語のリアリティーを追求するために人気ミステリ作家ローレンス・ブロック(40タイトル以上の本を執筆。作品はニューヨークを舞台にしたものが多い。)が脚本執筆に参加。ウォン・カーウァイ監督が書いたキャラクター・ディテール・ストーリーラインを元に彼が、すべての会話と彼が付け加えたい要素を脚本に仕上げた。
脚本を書かず、撮影直前に俳優にメモ書き程度の指示を与え、即興による演技をさせる手法でも有名なウォン・カーウァイ監督だが、今回はブロックと作った脚本をワーキングスクリプトとして、撮影中に俳優と修正を加えていったという。
僕はウォン・カーウァイ監督の、生きている限り影のようについて来る孤独の隣りに座り、詩的にそして静的に世界を捉えているような台詞が好きだ。隠れていた別の側面を見せてくれるようで。今回は?

◆音楽◆

そして、気になるのが映画に使用されている曲。

「恋する惑星」では、コインを入れたジュークボックスからデニス・ブラウンの「Things in Life」



が流れ、DCをセットしたラジカセからママス&パパスの「夢のカリフォルニア」



が流れる。劇中の人たちの行動と強い結び付きを持って何の違和感もなく巧みに、そして惜しみなく映画に音楽が挿入されていたのが印象的だった。また、「恋する惑星」渾身の一曲、フェイ・ウォンの「夢中人」



が、何かが始まる予感を爽快に奏でる。
その曲たちは非常に耳馴染みがよく、POPであるが故に、スクリーンの中で描き出される人間模様と、曲が創り出す世界観に少し相容れない乖離がある。その間を恋をした時に味わうような切なさや衝動、充足感など浮かんでは消えていくひと時の感情が埋め、ギャップを補完する。まるでミュージックビデオの中でドラマが展開しているのを見ている時に、発せられる言葉はこちらへ届いてこないから遠くの世界を眺めているような感覚と似ている。それによって映画全体を夢の中のような、記憶の旅をしているような幻想的な陶酔感が包む。
「留まることのない時間」の儚さや可憐さが浮き彫りにされ、その時間を形成しているすべてのものが愛おしく思えてくる。すると目の前にあるこの時、この瞬間もモノクロからカラフルな光に溢れてくる。
音楽によって、何倍も映画が魅力的なものになっているのは間違いない。

p080315_2「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のサウンドトラックには、アメリカ音楽の新旧を網羅したR&B、ソウル、ロック、フォーク、ジャズを収録。その中には、この映画が撮影されていた当時にノラ・ジョーンズがその体験に大きく影響されて書き下ろした「ザ・ストーリー/The Story」も入っている。この「ザ・ストーリー」は、初めて挑戦する女優業(“どう始めていいのか分からない”)と、その場で即興的に書き綴ってゆくカーウァイ監督の有名な脚本スタイル(“物語がどう終わるのか知らない”)に対する、ノラの不安感を映し出した曲だという。
また、『パリ・テキサス』や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ほか数多くの映画音楽を手がけてきたスライド・ギターの名手ライ・クーダーによるインストゥルメンタル・スコアの一部も収録されている。

監督:「撮影を始める前に、主人公・エリザベスが旅をする過程を理解しないとならないから、車で3度異なるルートでニューヨークからサンタモニカまで旅をした。1日に15時間もかかる旅の間に出来ることと言ったらラジオや、持って来た音楽を車で聞くことくらい。道中、窓の外の景色とカーステレオから流れる音楽が意外な形でシンクロし、エリザベスの心の風景を覗くことが出来た。この時の体験がサウンドトラックを形作った。
なぜなら、それぞれの州にはそれぞれ全く違った種類の音楽があって、例えば南の方では主にブルースだったり、ニューヨークの音楽は全く別だったり。基本的に私たちが旅の間に選曲していたオーティス・レディングとかを後で映画に使ったんだ。
そして同じく撮影前ノラに(ロケハンの写真の束を渡して、その写真の雰囲気に合う)いくつか曲を参考として持ってきてくれないか頼んだ。彼女は映画でも使われたエイモス・リー、オーティス・レディング、キャット・パワーなどいくつかを提案してくれた。」

このサウンドトラックについて、ラジオDJ・秀島史香さんがブログに綴られていた。

「秀島史香のブログ」・該当記事へのリンク

そこで僕も早速聴いてみた。しかし、確かにいい曲ばかりだけど、いまいちピンと来ない。それは僕がこの映画をまだ観てないからだと思う。きっとウォン・カーウァイ監督の描き出す世界を奏で、登場人物の心模様とリンクすれば、曲の持つ意味や表情がガラリと変わり、秀島さんのように「すっかり、虜です。最近、これを聞かずして夜眠れません。」となる気がする。

◆製作◆

監督は、「今回僕にとっての一番の挑戦は全編英語でやることだったよ。」と語っている。アメリカを描くにあたり、西洋人監督が歪曲したアジアを描いていると感じていた監督は、単に外国人が作ったエキゾチックな作品にならないように欧米文化に対し正確な表現を心がけ、常に周りのスタッフに確認しながら撮影していった。
「ずっと母国語以外の言語で映画を制作したいと思っていたが、この問題は回避したかった。」
アメリカに対する敬意を払いつつの撮影だったよう。

「東洋と西洋では、物の考え方、捉え方が違うのは当然なことでもある。たとえば、キスすることの意味合いも、西洋人のそれと、中国人のそれとは違うんだ。でも人種を超えて共有できるエモーションが存在すると信じている。」


アメリカで初の英語映画を撮るに際し、今回から色々な変化や工夫があった様子。これまでのウォン・カーウァイ色が、この新たな布陣によって更に磨かれ、スクリーンから滲み出てくるといいな。そして、「恋する惑星」では、歌手でもあるフェイ・ウォンが“フェイ”というハマリ役で最大限の魅力を発揮したように、映画初出演のノラ・ジョーンズが、ミュージシャンの感性を生かしてどんな魅力的で新たなキャラクターを演じているのか楽しみ。

これだけ書いておいて実際に「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を体感出来るのは、DVDレンタルが開始された後だから、来年の今頃になる予感。。いや、久しぶりに映画館に観に行こうか。
そうして毎年、桜の開花日が気になり始める頃に見たくなる映画がまた1本増えるのかな。

ノラ・ジョーンズ特別インタビュー映像 (ノラ・ジョーンズ公式サイト内)
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」オリジナルサウンドトラック・特別サイト

【参照:「マイ・ブルーベリー・ナイツ」公式サイト、映画関連サイト、等】
(ただ記事を集めてまとめただけです。すみません。)

完全に自己満足の記事です。^^;

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「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでメモ
2008-03-09 Sun 00:08
村上春樹の「ノルウェイの森」を読んで以来、有名な「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑でつかまえて)・J.D.サリンジャー著と翻訳・村上春樹の組み合わせに何故か惹かれて手に取りました。 爆笑問題の太田さんは、村上春樹さんの書かれる物語の会話部分がこじゃれていて、フィッツジェラルドやサリンジャーの会話のカッコよさの上っ面のパクリ、翻訳文みたいな会話、そんな会話するヤツいねーよ!と酷評されていたみたいですが、僕はそんな知的な会話をする登場人物たちに憧れに似た感情を抱いてしまいました。だからどうしても読みたくなったのかもしれません。

本当に大したことは書いてませんが、ネタバレを気にされる方はこの先ご遠慮ください。



キャッチャー・イン・ザ・ライキャッチャー・イン・ザ・ライ
(2003/04/11)
J.D.サリンジャー

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思春期の頃、初めて孤独や虚無感、そこはかとない悲しみに直面する。しかし、今までにそんな経験をしたことが無いから、それが一体何なのか正体すら見えない。精神的病は、それをまず病だと認知、自覚することから治療が始まると聞いたことがある。思春期独特の感情は、規定の概念に当てはめる術を知らないがゆえに実態のない闇の中で全身を使って闇雲にもがきながら歩を進める。
一方で大人になって分かった気になっている孤独や悲しみなどの心理状態、深く向き合わなくても巧くやり過ごすことを覚えていくが、実は、思春期の頃のように逃げる術も知らず不器用に葛藤していた時の方が、その先に存在する物事の本質に近づいていた、微かに見えていた、のではないかと思えてくる。そして、その中で見つけた希望はたとえ藁をもすがる思いで搾り出した幻想であっても尊く、いつまで経っても色褪せない普遍性をはらんでいる、その中で見つけた光は本当に輝いている、と感じた。

全編、主人公の第三者への独白によって綴られていく。いつまでブログのような序章が続くのかと思って読み進めていくといつの間にか、もう全ページの半分まで来ていた。語っている主人公が居る現在の部屋にシーンが移り、早く本筋の物語が始まることをどこかで期待していたのかもしれない。しかし、最後までそれは実現されない。主人公の掴みどころの無い“若さ”にちょっと退屈を覚えながらも、不思議とページをめくる手を止めることはなかった。そして、後半部分で取り繕っても隠せない主人公の偽らざる本音や弱さが顕わになり、そこからくる苦悩や絶望に触れたとき、何故この本がこれほどまで読み継がれて来たのか分かった気がした。ついには、無意識に見ないようにしていた自分の中にある闇を目の前に突きつけられ、対峙せざるを得なくなる。

最後、少年の心を救ったのが、社会の常識や長年の蓄積による知恵ではなく、無条件に注がれる純粋で小さな愛だったことがずっと心に残り、温かい気持ちにさせる。この時得たものは、少年がこれまで嫌悪感を抱いてきた対象の対極にあり、この先社会と折り合いを付けて大人になっていく時に、自分の核を喪失しない為の誘導灯となり、拠り所になるのではないだろうか。

この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、10代のうちに読んでおきたい本と言われているみたいですが、僕は特にそうは感じずにエンターテイメントとして楽しめました。それよりも、独自の行動規範を持つ登場人物の目線から見えていた風景を頭の片隅に置いていたら、もしかしたらもっと違った濃密な時間を過ごせたんじゃないかと思えて、10代の頃に読まなかった事へ後悔の念が生まれたのは、「ノルウェイの森」の方でした。

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春間近の運試し
2008-02-25 Mon 20:47
金曜深夜にFMラジオ局・J-WAVEで放送しているロケットマンことふかわりょうさんがパーソナリティーを務める「ROCKETMAN SHOW」(ロケットマンショー)。金曜の夜、眠りに就くまでは大体この番組をUSEN経由で流しています。

「グダグダトーク」と称されるふかわさんの強気と弱気が入り混じる語り口。亀田製菓の「ハッピーターン」、越後製菓の「ふんわり名人チーズもち」といったお菓子にまつわる話やソフトバンク、ポッキー等のCM批評から環境問題や世界平和まで“無駄な哲学”(ふかわさんは同名の著書を出している)を武器に真剣勝負で立ち向かってゆかれます。

太田さんが、「爆笑問題のニッポンの教養」でこんなことを仰っていました。

「僕は最近、その、面白さっていうのをね、やっぱり疑う必要もあるのかなと思うんですよ。つまりその、芸術が大衆に訴えたというのは、やっぱりその本質ではなくて、そこの本質に装飾を加えるわけですよね。そうでないと、大衆引っ張れないから。だから、なに芸のない奴って思うわけですよね。本質を言ってる奴って。そうすっと、飾りの部分はもの凄い力を持っちゃう。飾りに行っちゃうと、本質がなくなっちゃう。だけど、一方で、そのつまらなさっていうのがすごく重要な気がするわけです。我々は面白さばっかりやろうとすんだけど、面白くなればなるほど、本質から逸れるっていう部分もある。」


面白さと本質と太田さんが仰る所の“つまらなさ”、すべてひっくるめて一つのショーに仕上げようと奮闘する番組。

そんなロケットマンショーが100回目の放送を迎え、過去にも2回行われている「かぶっちゃだめよゲーム」が100回記念として盛大に開催されました。

――かぶる、それは過ち。かぶる、それは罪。かぶる、それは敗北。かぶった者は切り捨てられ、かぶらない者が生き残る。かぶった者は世界に埋もれ、かぶらない者が世界を変える。生き残りをかけた熱き戦いが、今夜全世界で繰り広げられる。――

このゲームは、事前にリスナーに「0」から「100」までの数字の内どれか一つを選んでメールで送ってもらいます。自分の選んだ数字が、もし誰ともかぶらなかった場合、賞品ゲットというとってもシンプルかつ巧妙なゲームです。これが思いの外盛り上がるんです。まず、誰でも手軽に参加できる事が大きく、時間経過と共に一つずつ潰されていく数字に一喜一憂し心臓の鼓動が高鳴ります。

誰にも公平なチャンスが与えられ、100個も数字があれば殆どかぶることはないだろうという錯覚が、賞品獲得への期待を無駄に大きくし、ゲームに入り込むことが出来ます。応募して結果を待つだけの受動的な抽選ではなくて、自分で結果を引き寄せられる可能性を秘めた能動的なゲーム。

このゲームがあることをすっかり忘れていて、放送当日の夜9時に思い出し、慌てて僕もメールを書き始めました。

運命を託す数字を決めるにあたり、以前もどの番号なら目立たないだろうか?とか、ぞろ目やラッキー7は敢えてみんな避けるのではないだろうか?とか思考を色々巡らし逡巡し応募しましたが、いずれも駄目だったので、今回は自分の意識の介入しない方法で番号を決めることにしました。そこで部屋の中を数字を求めて見回してみると、テレビに付いているデジタル時計が、「21:23」と表示しています。
じゃあ、この二つの数字を足して「44」で行こうかな、いや、でもぞろ目になってしまったなぁ、ちょっと危険かな、と思案しているとデジタル時計は、「21:24」と変わってしまいました。
僕の中で「44」か「45」、どちらにしようか散々迷った挙句、敢えてぞろ目の「44」で行こうと決定。

100回放送のお祝いメッセージと共にその番号を送信しました。

午前0時30分からの放送はちょっと用事があって聴けなかったので録音。

聴き始めることが出来たのは、1時過ぎでした。ふかわさんが、次々とお祝いメッセージと共にリスナーが選んだ一つの数字を読み上げていきます。

「17番に飛び込んだー!!」 
「かぶってなくてよかったね♪」(効果音)
いつ奪われるとも分からない一時的な数字という名の座を射止めたリスナー。

「67番に飛び込んだー!!」
「かぶってやんの〜〜。かぶってやんの〜。アウト〜!!」(効果音)
番組に対する熱いメッセージを綴ってきた奇特なリスナーも、無情にゲームの舞台から去ってゆきます。

100分の1の確率とはいえ、いつ自分の番号が出てしまうか、緊張は高まります。傾向としては、90番台や、10番台、1ケタ台、が多く目立ちます。みんな何周も答えのない問いについて迷い考え導き出された解答が、発表されていきます。

心臓はドキドキして眠気も吹っ飛び、暫く聴き続けました。すると1時間位経った頃に、あるリスナーが、「彼女の誕生日なので、この数字にしました。」というメッセージと共に「44」の数字が!!遂に出てしまいました。
そんな〜。彼女の誕生日とかぶるとは・・・。そんな偶然が・・・。
ここで根拠の無い自信と希望は誰にも気付かれないうちに絶たれ、意気消沈した僕に、急に眠気が襲ってきました。

あと気になる事は、「45」という番号。迷った末に選ばなかった「45」。もし、この番号を選んでいたら僕はどいう運命を辿っていたのか小っさな未練から結末が気になり、録音ボタンを押して、夢の中に堕ちました。


次の日、昨日録音しておいた0時半の番組冒頭部分からMDを再生させました。
すると、そこではこのゲームの賞品発表が行われていました。そう、僕は何が貰えるのかも知らずにゲームに参加していたのです。そこで予想だにしなかった賞品が飛び出しました。

ゲームの勝者に贈呈されるのは、、

「ロケットマンショー番組見学券」

実際に生放送をやっている六本木ヒルズ33階のJ-WAVEスタジオ。ふかわさんが喋っているブースの中に入って、インターネット放送もしているので全世界に向けて発信している番組の現場を目の当たりに出来るというもの。

普通のリスナーなら飛び上がって喜ぶ所なのでしょうが、僕はそうではありませんでした。

えっえっ、そんな、もし当たっても困ります。そんな度胸ありません。こちらは地方で時間的に難しいですし、東京なんてハイカラな所にある流行の最先端を突っ走るお洒落なJ-WAVEになんてこんな僕が足を運べるわけありません。しかも、他のリスナーの方を差し置いてスタジオに詣でることが出来るような熱心なリスナーではありませんし。

・・・なんて、もう既にゲームに負けているにもかかわらず、心の中で意味の無い言い訳をしていました。(笑)

それから、録音音源は、僕が昨日眠ってしまって以降の番組終盤へ。暫く番号にまつわる悲喜こもごもが展開された後、放送終了時刻が迫り、いよいよゲームのクライマックス。

すべてのデータが集計され最終結果がふかわさんの手元に届き、発表されます。

「第3回・『放送100回記念かぶっちゃだめよゲーム』最終結果ですね。なんとですね、過去最多の参加者だと思うんですけれども、、、かぶってない人、、3名!!」

通常は、全くかぶらなかった幸運なリスナーが10名程度現れるのに対し、今回は応募人数が多かったこともあり、勝利の女神が微笑んだ人は、たったの3人。

この3人が選んだ番号は、「46番、70番、94番」

そして、一番メールのあった番号は、「61」で15人。この「61」という番号、第1回の「かぶっちゃだめよゲーム」でも一番多く選ばれた番号で、その時は17人もかぶったといいます。ふかわさんは、この数字に取り憑いた不思議な力について考察し、PHP出版で本を書きたいと仰っていました。(笑)

で、結局誰も選ばなかった、一人も送ってこなかった空席の番号も付け加えて発表されました。

「皆さん、この番号で迷いませんでしたか? 45番、57番、85番」

なんと「45番」が空席だったのです!!

今回のゲームは、ちょっとした運試し程度の気持ちで参加したのですが、「45」を選ばずにゲームに負けた自分は、結局運が良かったという結末になったのです。
だって、もし「45」で見事番組見学の招待券をゲットし、それを辞退ようものなら、ふかわさんをはじめとする番組を支えておられるスタッフの皆様の“リスナーをもてなしたい、喜ばせたい”という優しさを含んだ有り難い気持ち、そして、儚くも散ってゆかれたリスナーの悔しい気持ちを踏みにじる事に成りかねなかったからです。
何百何千といるリスナーの中から選ばれたたった4人の内、一人が辞退したとなればこれは目立つでしょうし、場をシラケさせること請け合いです。

数字の「44」と「45」の間で揺れ動き、間違って東京行きのチケット「45」を掴みかけた事実を抱える僕の心は、いつも想像しているだけの東京の夜景が一望できる六本木ヒルズにあるラジオブースに自然と飛んでいきました。そして、ハズレてよかったという安堵感と、寒さの緩んだこの日に春霞のような淡い夢を見ることが出来たフワフワした気持ちに包まれ、目頭がじんわりと温かくなりました。

ここまで読んで下さって有難う御座いました。長々とスミマセン。^^;

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〜ゆらゆら〜
2008-02-20 Wed 22:13
ラジオ番組でトークの流れから三谷幸喜さんが、小学校の校歌をスラスラ歌っていた。今でもしっかり覚えていらっしゃって驚く。よく小さい頃の話を覚えていてオチまでつけて語ることが出来る人がいるが、それだけでも凄いのに更に自伝的小説まで出す人も。僕からするとこれは殆ど神業に近い芸当だ。長期記憶に問題があるのか(^^;)、僕はほとんど忘れてしまっている。



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もしも子供の頃から写真が今のように身近なものだったなら

どれだけ何気ないひとコマを写真に撮っただろう

そして、その写真を見てどれだけ埋もれた記憶のカケラを拾い集められるだろう




P.S 上記の“何気ないひとコマ”でイメージしたのが、NOMさんが「Plus RELAX photograph blog」で紹介されている写真の数々。
計算され尽くした構図と鋭い感性で搾り取られた時の雫。思考を尽くされた写真の筈なのに、これまで日々の雑念の合間にふと目に留まった日常の光景から受け取っていたハッキリとは掴めない淡い匂いと同じものを感じてしまう。時間の狭間に住む番人が気を抜いた時に現れる場の静寂。時間の風が止み凪が訪れる。そこに立ち昇る枯淡の香り。心の深層にある泉に水滴が一滴ピタンと落ちる。そして、無に寄り添った感性の波紋が音もなくゆらゆら広がる。それらは気付くこともなく遣り過ごしてしまうかもしれない微かなもの。
しかし、本当はその目に映る日常の何でもない一瞬の光景にこそ人生の深い余韻が凝縮されている気がする。時の流れを止めた写真にはそれが鮮明に描き出される。魂の存在と周囲の景色、対人模様が今の状態を維持して此処にある奇跡と煌き。“普通”の中に潜む神秘。それを認めた時の感情の発露と安らぎ。一瞬の“生”の息吹が吹き抜ける。

後から思い返す時、過ぎ去った日々がもし、所詮“邯鄲の夢”であり、幻想のようなものだったとしたら、体験というはっきりした本体よりも、その周りに漂う陽炎(かげろう)のような目に見えない“ゆらゆら”した部分に大事なエッセンスが隠されているようにさえ思えてくる。それはいつまでも消えずに残り続けてゆくのかも。

誰も居ない駅のホーム。昼下がりの光が差し込む廊下。夜、家庭の明かりがこぼれる夏の路地。いつもそんな傍らに“ゆらゆら”は存在している。仄かに伝わってくるからこそ心に沁みる“ゆらゆら”を捉えた写真に僕は捕らえられる。

【BGM】 B'z:「恋じゃなくなる日」


自分でも何書いてんだかと思いますが、FC2からの“ブログ1ヶ月放置の刑”を逃れるために取り合えずアップ。^^;

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