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2008-03-15 Sat 22:10
またこんな季節がやってきた。前回「恋する惑星」を観たのは、去年の春。ブログを見返すとちょうど1年前の今日、記事を書いていた。冬の緊張が和らぎ春の気配がする頃。また「恋する惑星」を観たくなる。何故だろう、この映画を薦められて初めて見たのが春だったから?ちょっと潤いのある春の空気が周りに漂い始めると、この映画の世界と自分のいる世界がリンクしやすく感じているから? 更にこの映画が似合う時間帯があるとすれば、宵の時間だったり、東の空が白み始める夜明け前だったり、変化の余韻や予感を辺りに留めている時間。何かの中間。境目が曖昧で、何処か浮遊している感覚があり、繊細で直ぐに消え入ってしまいそうな映画全体を覆っている幻夢のような香りを受け取る感度が増すから? 太陽が沈みかける頃、窓をいっぱいに開けて春の甘い匂いを部屋の中に入れる。冬の寒さとは違う、初春の冷たさにこれから訪れる夏への懐かしさ感じながら、僕は恋によって駆動すると言われる惑星を動かし始めた。 恋の期限は、缶詰の期限と重ね合わせられ、恋の行方は飛行機のフライトになぞらえられる。 登場人物たちは、春の宵を颯爽と駆け抜けていくようなイメージが浮かぶ。まるで地球によく似た全く別の惑星にある街の片隅を覗いているよう。そこには一万光年のタイムラグ。彼らの時間が流れ、彼らにしか見ることの出来ない取り巻く世界の美しさがあるのではと思えてくる。 この映画で一番好きな台詞がある。フラれた刑事モウ(金城武)が一人失恋祝いをした後、明け方にフラッとバーに入る。 「“愛は夜明けに終わる”、そんな歌の心境だ。メイを忘れたい。僕は自分に言いきかせた。――」 「――今度入ってきた女性を好きになろう。」 この映画に登場してくる人たちはみんな、普通は大人になるにつれて失っていくはずの汚れを知らない純粋さを持ち続けている。 刑事633号(トニー・レオン)が、石鹸やぬいぐるみ、タオルを人格化して話し掛けることも、 刑事モウが「失恋すると涙を蒸発させるためにジョギングをすると良い」と信じていることや、「“記憶の缶詰”に期限がないといい、あっても一万年ならいいが・・・」と願うことも、 フェイ(フェイ・ウォン)が大きな音で音楽をかけているのは、いろいろ考えなくて済むからということや、刑事633号の部屋へ勝手に忍び込み自分好みの部屋へ変えてしまうことも、 すべて、自然体で自分のストレートな感性、直感に従い、運命に逆らわない天性の無欲さ、謙虚さ、無邪気さ、そんなようなものが彼らの中にあるからではないかと感じてしまう。星の運行を支配している見えない力、それに従って廻っている惑星の上で、不思議な因果に寄り添いながら暮らしている人たち。それらが刑事モウの台詞の中に凝縮されている気がする。 自我(エゴ)を捨て、流れに身を任せながら軽快に人生を泳いでいく。そうすることで見えてくる新たな風景がある。過去にそんな経験は殆どなく、自分には中々出来ないことだから、「恋する惑星」に生きる登場人物に憧れを抱くのかもしれない。新たな風景にも、そこに生きる人たちにも、優美さや爽やかさがある。春の宵に吹く南風のような。。 初めて出会って衝撃を受けた作品があると、僕はそれと同じような作品を何処までも追い求めてしまう傾向がある。宮崎駿監督作品であれば、「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」。新作が出てもそれが自分の思い描く理想と違えば、どんなにいい作品であっても渇望感は消えない。たとえそれがファンのエゴだったとしても。たとえそれがアーティストが最も嫌うことだったとしても。 “あれと同じような作品”というのは、もしかしたら存在し得ないのかもしれない。しかし、ウォン・カーワァイ監督作品には、“「恋する惑星」のような映画”をいつまでも待ち望んでしまう。 そして、月日は流れ、今月3月22日(土)、「マイ・ブルーベリー・ナイツ / MY BLUEBERRY NIGHTS」が公開される。この作品には根拠は全くないけど何処となく「恋する惑星」と同じ匂いがする。「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のテーマは、「旅と距離」。アメリカを舞台に新たな愛の側面を描く監督初の英語映画。普通のラブ・ストーリーに見られるような2人の人間が対峙する単純な構成ではなく、逆に2人の物理的な距離を広げつつ、美しい台詞で心の距離を丁寧に埋めていくという構成。ブルーベリー・パイをモチーフに苦い失恋から出発した旅を、甘い恋の予感で締めくくる、とのこと。 ◆あらすじ◆ 「失恋した私にもう一度恋をする勇気をくれたのは、あなたのブルーベリー・パイだった。」 恋人の心変わりで失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)は、彼の家の向かいにあるカフェに出入りするようになる。店のオーナー・ジェレミー(ジュード・ロウ)と話すことで自分を慰めようとするエリザベス。ジェレミーは彼女のために、毎晩ブルーベリー・パイを残しておくようになる。 2人の距離が縮まってきたかに思えたある日、エリザベスは突然、ニューヨークから旅立つことを決意する。失恋から57日、ニューヨークから1,120マイル、メンフィス。失恋から251日、ニューヨークから5,603マイル、ラスベガス。 そして、旅立ってから半年後、ジェレミーの元に1枚のハガキが届く。 「あなたのブルーベリー・パイは世界一おいしい。」 ジェレミーはエリザベスを探し始めるのだが・・・。 ◆映画の誕生◆ 僕は、ウォン・カーウァイ監督の切り取るアジア独特の空気が好きだったので、どうして今回はアメリカなのかなと思っていたら、それには明確な理由があったよう。 監督:「『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のストーリーは、『花様年華』の短編版に由来しているんだ。6分の短編で『花様年華』に入るはずのストーリーだったんだけど、そのストーリーがとても気に入っていたので、そこでは使わず、ここで使うことにしたんだ。リメイクではなく、広げていく形でね。当時ノラ・ジョーンズと仕事をしたかったから、今回アメリカで映画を作りたいと思った。特に英語で作ろうと思っていたわけじゃないんだ。ただ、主演のノラ・ジョーンズに中国語で話せとは言えないからね。(笑)このストーリーはノラにとてもよく合うから、ニューヨークを舞台に英語で撮影してもいいかもしれないと。」 では、監督とノラ・ジョーンズの出会いは・・・、監督:「実は、ラジオを通じてノラの存在を知った。数年前、映画『2046』のプロモーションを兼ねて台北を訪れていた時、夕方6時くらいにテレビ局に行く途中、タクシーのラジオからノラ・ジョーンズの曲が流れてきた。そこでまず彼女の声を聞いた。渋滞に巻き込まれて、車中何もすることがなかったが、台北の夕景がブルーに染まってとっても奇麗だった。そんな夕焼けを見ながら、ノラの声が唯一の仲間のような心境になっていた。その声がとても官能的でシネマチックだった。かかっていた曲は『Come Away With Me』。ある少女が街を歩いていて、誰かを待っている、というような景色を自然と想像していた。すると、その日の夜、ちょうど同じホテルにノラもワールドツアーで滞在していたことに気付いた。その時はお互いを知らなかった。そんな偶然というか運命の巡り合わせもキッカケとなり、改めて彼女と会いたいと思い、1年後ニューヨークでスケジュールを調整して会うことになった。」 元々は映画音楽を作って貰おうと思ってノラに会った監督。しかし話をしているうちに、彼女が映画にとても興味を持っていること、そして監督の作品(『花様年華』)を痛く気に入っていることが分かっていく。更に、彼女の自然でのびのびとした魅力が映画に向いていると感じる。そこで是非本人に主演して欲しいという気持ちになり、「出演してみないかい?」とノラに聞いてみたそう。彼女に出演依頼したのは、至極自然な流れだったという。 ノラを起用した一番の理由として監督は、魂のこもった彼女の歌声に魅せられたからとも語っている。 「彼女の声は非常に映画的だと思う。素晴らしい楽器のように、様々な表情を持っているからね。目を閉じ彼女の声を聞いているだけでも、そこからストーリーを感じとることができる。そして、都会をさまよう女性を連想させる。それでこの映画が出来ると思った。」 例の「花様年華」用だった短編は、元々真夜中の香港のダイナーで起きる物語。だから今回の映画冒頭部分のダイナーの中で起こったことしかカバーしていない。監督らはそれを膨らませ、ダイナーからT・ウイリアムズの小説を彷彿させる街・メンフィスへ、そして街自体が映画のセットのようで昼と夜全く違った顔を持つ特殊な街・ラスベガスへと物語にアメリカを横断させた。 監督は、旅に出ているアーティストとしてのノラ・ジョーンズのスタイルからインスピレーションを受け、距離をテーマに、旅をベースにしたラヴ・ストーリーを考えたという。 「ノラのスケジュールを見ると、わずか8週間しか空いていなかった。(今回の映画の撮影期間は、2ヶ月。)だから脚本を書くにあたり、限られた時間で何ができるかと考えていた。彼女は有名なミュージシャンで、一年中ツアーでさまざまな場所を訪れている。それならば、彼女が親しんでいる"旅"というシチュエーションで映画を作ろうと思った。」 ◆撮影◆ これまで、ウォン・カーウァイ監督デビュー作「いますぐ抱きしめたい」以外すべての作品の撮影監督を務めてきた映像作家のクリストファー・ドイル。スローモーションや手持ちカメラを用いた躍動感あふれる映像として知られ、ウォン・カーウァイ作品独特の濡れたガラス板に光が反射しているようなしっとりとした映像が魅力的だった。 しかし、今回は、ダリウス・コンジ(映画「セブン」、「デリカテッセン」、「ロスト・チルドレン」などの撮影を担当)がカメラを取った。 これまでの映像表現がどの程度踏襲されているのだろうか。 ◆脚本◆ 初め、脚本家として映画界デビューしたウォン・カーウァイ監督。(香港のテレビ局で脚本家としてキャリアをスタートさせた後に、プロデューサーに映画を作ってみないかという打診を受けて監督に。)これまでの作品で脚本を手掛けてきたが、今回は、英語のリアリティーを追求するために人気ミステリ作家ローレンス・ブロック(40タイトル以上の本を執筆。作品はニューヨークを舞台にしたものが多い。)が脚本執筆に参加。ウォン・カーウァイ監督が書いたキャラクター・ディテール・ストーリーラインを元に彼が、すべての会話と彼が付け加えたい要素を脚本に仕上げた。 脚本を書かず、撮影直前に俳優にメモ書き程度の指示を与え、即興による演技をさせる手法でも有名なウォン・カーウァイ監督だが、今回はブロックと作った脚本をワーキングスクリプトとして、撮影中に俳優と修正を加えていったという。 僕はウォン・カーウァイ監督の、生きている限り影のようについて来る孤独の隣りに座り、詩的にそして静的に世界を捉えているような台詞が好きだ。隠れていた別の側面を見せてくれるようで。今回は? ◆音楽◆ そして、気になるのが映画に使用されている曲。 「恋する惑星」では、コインを入れたジュークボックスからデニス・ブラウンの「Things in Life」 が流れ、DCをセットしたラジカセからママス&パパスの「夢のカリフォルニア」 が流れる。劇中の人たちの行動と強い結び付きを持って何の違和感もなく巧みに、そして惜しみなく映画に音楽が挿入されていたのが印象的だった。また、「恋する惑星」渾身の一曲、フェイ・ウォンの「夢中人」 が、何かが始まる予感を爽快に奏でる。 その曲たちは非常に耳馴染みがよく、POPであるが故に、スクリーンの中で描き出される人間模様と、曲が創り出す世界観に少し相容れない乖離がある。その間を恋をした時に味わうような切なさや衝動、充足感など浮かんでは消えていくひと時の感情が埋め、ギャップを補完する。まるでミュージックビデオの中でドラマが展開しているのを見ている時に、発せられる言葉はこちらへ届いてこないから遠くの世界を眺めているような感覚と似ている。それによって映画全体を夢の中のような、記憶の旅をしているような幻想的な陶酔感が包む。 「留まることのない時間」の儚さや可憐さが浮き彫りにされ、その時間を形成しているすべてのものが愛おしく思えてくる。すると目の前にあるこの時、この瞬間もモノクロからカラフルな光に溢れてくる。 音楽によって、何倍も映画が魅力的なものになっているのは間違いない。 「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のサウンドトラックには、アメリカ音楽の新旧を網羅したR&B、ソウル、ロック、フォーク、ジャズを収録。その中には、この映画が撮影されていた当時にノラ・ジョーンズがその体験に大きく影響されて書き下ろした「ザ・ストーリー/The Story」も入っている。この「ザ・ストーリー」は、初めて挑戦する女優業(“どう始めていいのか分からない”)と、その場で即興的に書き綴ってゆくカーウァイ監督の有名な脚本スタイル(“物語がどう終わるのか知らない”)に対する、ノラの不安感を映し出した曲だという。また、『パリ・テキサス』や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ほか数多くの映画音楽を手がけてきたスライド・ギターの名手ライ・クーダーによるインストゥルメンタル・スコアの一部も収録されている。 監督:「撮影を始める前に、主人公・エリザベスが旅をする過程を理解しないとならないから、車で3度異なるルートでニューヨークからサンタモニカまで旅をした。1日に15時間もかかる旅の間に出来ることと言ったらラジオや、持って来た音楽を車で聞くことくらい。道中、窓の外の景色とカーステレオから流れる音楽が意外な形でシンクロし、エリザベスの心の風景を覗くことが出来た。この時の体験がサウンドトラックを形作った。 なぜなら、それぞれの州にはそれぞれ全く違った種類の音楽があって、例えば南の方では主にブルースだったり、ニューヨークの音楽は全く別だったり。基本的に私たちが旅の間に選曲していたオーティス・レディングとかを後で映画に使ったんだ。 そして同じく撮影前ノラに(ロケハンの写真の束を渡して、その写真の雰囲気に合う)いくつか曲を参考として持ってきてくれないか頼んだ。彼女は映画でも使われたエイモス・リー、オーティス・レディング、キャット・パワーなどいくつかを提案してくれた。」 このサウンドトラックについて、ラジオDJ・秀島史香さんがブログに綴られていた。 ■「秀島史香のブログ」・該当記事へのリンク そこで僕も早速聴いてみた。しかし、確かにいい曲ばかりだけど、いまいちピンと来ない。それは僕がこの映画をまだ観てないからだと思う。きっとウォン・カーウァイ監督の描き出す世界を奏で、登場人物の心模様とリンクすれば、曲の持つ意味や表情がガラリと変わり、秀島さんのように「すっかり、虜です。最近、これを聞かずして夜眠れません。」となる気がする。 ◆製作◆ 監督は、「今回僕にとっての一番の挑戦は全編英語でやることだったよ。」と語っている。アメリカを描くにあたり、西洋人監督が歪曲したアジアを描いていると感じていた監督は、単に外国人が作ったエキゾチックな作品にならないように欧米文化に対し正確な表現を心がけ、常に周りのスタッフに確認しながら撮影していった。 「ずっと母国語以外の言語で映画を制作したいと思っていたが、この問題は回避したかった。」 アメリカに対する敬意を払いつつの撮影だったよう。 「東洋と西洋では、物の考え方、捉え方が違うのは当然なことでもある。たとえば、キスすることの意味合いも、西洋人のそれと、中国人のそれとは違うんだ。でも人種を超えて共有できるエモーションが存在すると信じている。」 アメリカで初の英語映画を撮るに際し、今回から色々な変化や工夫があった様子。これまでのウォン・カーウァイ色が、この新たな布陣によって更に磨かれ、スクリーンから滲み出てくるといいな。そして、「恋する惑星」では、歌手でもあるフェイ・ウォンが“フェイ”というハマリ役で最大限の魅力を発揮したように、映画初出演のノラ・ジョーンズが、ミュージシャンの感性を生かしてどんな魅力的で新たなキャラクターを演じているのか楽しみ。 これだけ書いておいて実際に「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を体感出来るのは、DVDレンタルが開始された後だから、来年の今頃になる予感。。いや、久しぶりに映画館に観に行こうか。 そうして毎年、桜の開花日が気になり始める頃に見たくなる映画がまた1本増えるのかな。 ■ノラ・ジョーンズ特別インタビュー映像 (ノラ・ジョーンズ公式サイト内) ■「マイ・ブルーベリー・ナイツ」オリジナルサウンドトラック・特別サイト 【参照:「マイ・ブルーベリー・ナイツ」公式サイト、映画関連サイト、等】 (ただ記事を集めてまとめただけです。すみません。) 完全に自己満足の記事です。^^; |
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2008-03-09 Sun 00:08
村上春樹の「ノルウェイの森」を読んで以来、有名な「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑でつかまえて)・J.D.サリンジャー著と翻訳・村上春樹の組み合わせに何故か惹かれて手に取りました。 爆笑問題の太田さんは、村上春樹さんの書かれる物語の会話部分がこじゃれていて、フィッツジェラルドやサリンジャーの会話のカッコよさの上っ面のパクリ、翻訳文みたいな会話、そんな会話するヤツいねーよ!と酷評されていたみたいですが、僕はそんな知的な会話をする登場人物たちに憧れに似た感情を抱いてしまいました。だからどうしても読みたくなったのかもしれません。
本当に大したことは書いてませんが、ネタバレを気にされる方はこの先ご遠慮ください。
思春期の頃、初めて孤独や虚無感、そこはかとない悲しみに直面する。しかし、今までにそんな経験をしたことが無いから、それが一体何なのか正体すら見えない。精神的病は、それをまず病だと認知、自覚することから治療が始まると聞いたことがある。思春期独特の感情は、規定の概念に当てはめる術を知らないがゆえに実態のない闇の中で全身を使って闇雲にもがきながら歩を進める。 一方で大人になって分かった気になっている孤独や悲しみなどの心理状態、深く向き合わなくても巧くやり過ごすことを覚えていくが、実は、思春期の頃のように逃げる術も知らず不器用に葛藤していた時の方が、その先に存在する物事の本質に近づいていた、微かに見えていた、のではないかと思えてくる。そして、その中で見つけた希望はたとえ藁をもすがる思いで搾り出した幻想であっても尊く、いつまで経っても色褪せない普遍性をはらんでいる、その中で見つけた光は本当に輝いている、と感じた。 全編、主人公の第三者への独白によって綴られていく。いつまでブログのような序章が続くのかと思って読み進めていくといつの間にか、もう全ページの半分まで来ていた。語っている主人公が居る現在の部屋にシーンが移り、早く本筋の物語が始まることをどこかで期待していたのかもしれない。しかし、最後までそれは実現されない。主人公の掴みどころの無い“若さ”にちょっと退屈を覚えながらも、不思議とページをめくる手を止めることはなかった。そして、後半部分で取り繕っても隠せない主人公の偽らざる本音や弱さが顕わになり、そこからくる苦悩や絶望に触れたとき、何故この本がこれほどまで読み継がれて来たのか分かった気がした。ついには、無意識に見ないようにしていた自分の中にある闇を目の前に突きつけられ、対峙せざるを得なくなる。 最後、少年の心を救ったのが、社会の常識や長年の蓄積による知恵ではなく、無条件に注がれる純粋で小さな愛だったことがずっと心に残り、温かい気持ちにさせる。この時得たものは、少年がこれまで嫌悪感を抱いてきた対象の対極にあり、この先社会と折り合いを付けて大人になっていく時に、自分の核を喪失しない為の誘導灯となり、拠り所になるのではないだろうか。 この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、10代のうちに読んでおきたい本と言われているみたいですが、僕は特にそうは感じずにエンターテイメントとして楽しめました。それよりも、独自の行動規範を持つ登場人物の目線から見えていた風景を頭の片隅に置いていたら、もしかしたらもっと違った濃密な時間を過ごせたんじゃないかと思えて、10代の頃に読まなかった事へ後悔の念が生まれたのは、「ノルウェイの森」の方でした。 |
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| アドリア海の4.A.M. |
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