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2008-05-16 Fri 00:01
最近、僕の中で『三谷幸喜』が熱いです。・6月7日にいよいよ三谷幸喜さんが監督を務めた映画としては4作品目となる「ザ・マジックアワー」が公開されます。それに合わせて三谷さんが今、2ヶ月限定でブログを開設されていて(おそらく映画公開日まで)、それを毎日チェックしていること。 ・以前読んだ万城目学さん(「鹿男あをによし」でお馴染み)のエッセイ「ザ・万歩計」がかなり面白く、緻密なストーリーを組み立てる作家繋がりで三谷幸喜さんのエッセイが気になり始めていました。そして、初期作品「オンリー・ミー 私だけを」(初版1997年)、「三谷幸喜のありふれた生活」(初版2002年)を古本屋で見つけ出して立て続けに読んだこと。 ・平日、三谷さんの声をラジオから聴いていること。 以上のことなどから、期せずして「三谷幸喜」月間となっております。 エッセイ本は、三谷さんの日常が綴られているのですが、“ありふれた生活”ではなくて“オチのある生活”と言い換えてもいいほど、どのエピソードも必ずオチがついて、三谷さんのキャラクターを想像するとクスッと笑えます。それらが、映画や演劇の創作活動に関連していることが多く、普段は表に出てこない“ものを作る人”の日常に興味がある人にはこれ以上無いエッセイだと思います。 これを読んで、三谷さんは、常に周りを俯瞰的に見ている人だという印象を受けました。自分自身の事も一歩引いたところから見られていて、その三谷さんには、どんな時もその状況を楽しもうとし、人生なんとかなるさ、明日は明日の風が吹くといった達観的、楽観的な考えが根底にあるような気がします。 しかし、当の三谷さん本人は、控え目で人の気持ちを気にするとても繊細な心を持った人。 そのギャップが、笑いを生み出す原動力になっているのかなと感じました。 エッセイの中には、芝居本番が目前に迫る中、全く原稿が上がって来ず俳優陣からの相当なプレッシャーを受け窮地に立たされる三谷さんも出てきます。焦れば焦るほど筆は進まず、どうにか俳優さんを安心させるために付け焼刃の策を講じようと思案するもそれが裏目に出たり、体力も必要だからと仮眠を取ろうとしたら結局何もない日曜日でもそんなに寝ることはない12時間以上も眠ってしまったり。ものを生み出すということは命を削るほどの苦しみを伴うと想像しますが、それでもそこにいる三谷さんは何処か可笑しみを醸し出していて、決して悲壮感は漂ってきません。 三谷さんは、「オンリー・ミー 私だけを」の中でこんなことを仰っています。
この文章を読んだ時、なんだか気分が楽になったような感覚がありました。こんな考えを持った人がいることに救われる感覚も。自分の中で、本当に真剣に悩んでいることがあって一人で苦しんでいるとします。そして、今まで誰にも言えなかったことを意を決して第三者に相談すると、意外にも笑って「そんなこと大したことないよ、どうにかなるさ。大丈夫。」という返事が返ってきてふぅーっと力が抜けた時の感覚に似ていました。時には、第三者の他人事的な楽観視が身に沁みて嬉しい場合もある。 人が本当に四面楚歌の状態に陥ったときの安全弁のような働きがそこにはある気がしました。 「おかしい」とは、生きている根本的な深い実感や感動をも含んでいて、それが「生きる勇気」と繋がる。その場に立つ力となり、そっと背中を押してくれる。客観的に「おかしい」と受け止められるセンスをいつも心の何処かに持っていたい。 (これを書いている時、ちょうど中国四川の地震がもたらした甚大な被害が次第に明らかになりつつありました。今、被災者の方々は、僕なんかが想像もつかないような苦しみや悲しみの中におられるはず。すると、同じ状況に立たされたとき、お前は本当に悲しみをすべて受け入れてその一段上によじ登り客観的に捉え、生きる力を絞り出せるのかと言われているような気がしました。答えは出ません。しかし、人間には、その底力が備わっていると信じたいし、先人の方々がそれを証明してこられたんだと思います。少しでも早く被災者の方々の苦しみが和らぐことを祈ります。) また、幕末にこだわる三谷さんが、幕末という時代の特色と関連付けてシチュエーションコメディーの要素を挙げておられました。
そこに笑いの要素は一見皆無のように見えて、実は笑いに一番近い状況と言えるのかもしれません。三谷さんだからこそ生まれた笑いのセオリー。 「オンリー・ミー 私だけを」の中には他に、“笑いや面白さは、物事の表層部分ではなく本当の核心を突いた時に生まれるのかもしれない、だから面白さを追及する三谷さんには物事の本質が見えているんだろうなぁ”と思えた一節がありました。 これは今から15年前である1993年、細川護煕内閣総理大臣が誕生した時に書かれた三谷さんらしい斜めから不真面目に大物政治家を考察した文章の一部。
そんな三谷さん。「ザ・マジックアワー」から生まれたブログを拝見していると、これから映画の公開日である6月7日まで、映画宣伝のために三谷監督怒涛のメディア出演が敢行されるようです。 「三谷幸喜のありふれた生活」には、映画「みんなのいえ」の映画キャンペーンの様子が書かれているのですが、当時は、150本の新聞・雑誌取材、90本のテレビ・ラジオ番組に出演したとありました。 海外から来るハイバジェットの映画で、時々くどいほど映画の宣伝が街に氾濫し、なんでもかんでも宣伝絡みで世間を動かしていくといった現象が起こりますが、そんな時、逆に拒絶反応を示して映画を観たくなくなる人がいることも事実。 「ザ・マジックアワー」はそういった映画とは違いますが、そんな類のリスクを犯してでも三谷さんが映画宣伝に身を捧げる哲学にも似た熱い決意が、「三谷幸喜のありふれた生活」にしたためられていました。
これを読めば、これから始まる三谷監督の映画キャンペーンの見方が少し違ってくるかもしれません。 三谷監督の映画も番組出演も今から楽しみです。「生きる勇気」が込められた三谷さんの「笑い」を今。 ■映画「ザ・マジックアワー」オフィシャルサイト ■期間限定ブログ「三谷幸喜の、みちたりた生活」 ■「マジックアワーを知っていますか。」 (「ほぼ日刊イトイ新聞」内) 以上、最近書くことがすべて上滑りしているりんくうがお届けしました。m(__)m 記事に関してお気を悪くされた方がいらっしゃったらどうかお許しください。
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2008-04-29 Tue 23:55
このブログに検索でアクセスしてくださった方の多くが「本谷有希子 トップランナー」、「月イチゴロー」、「秒速5センチメートル 壁紙」の3つのキーワードからの来訪ということを以前書きましたが、久しぶりに忍者のアクセス解析を覗いてみると、その傾向は未だ変わらず、しかしながら「秒速5センチメートル 壁紙」の全体に占める割合がかなり増加していました。「秒速5センチメートル」のDVDが発売されたのが去年の7月。去年5月に本谷さんが出演されたトップランナーの情報を求めて来られる方の数が下火になってきたのにも関わらず、依然として「秒速5センチメートル」の壁紙人気は衰えず。と勝手に自分のブログアクセス解析だけの情報から判断するのは無謀な話なんですが。(^^;)
こんなにも「秒速5センチメートル」の壁紙の需要があるという事柄は、自分にだけ分かった事実ではないかとちょっと嬉しくなってみたり。 (一時期ノートパソコンの壁紙は、「秒速5センチメートル」の壁紙にしていたのですが、ちょっと前から「鹿男あをによし」の壁紙に変更中。)それだけ根強くみなさんの興味を惹く「秒速5センチメートル」とは如何に。ちょっと気になり始めた頃にラジオの映画紹介番組の中でレンタル店の店長がインタビューに答えて「秒速5センチメートル」をお勧めされていたのを聴きました。これは一度レンタルして観て見るしかないと思い、ようやく先日この作品を見るに至りました。 以前の記事は、この映画の予告編と主題歌「One more time, One more chance」ミュージックビデオの映像だけを見て、それに対する感想を書きました。だから本編を観る前は、よく映画の予告編がインパクトのある映像を集めて編集されているが故に、期待して観に行くと拍子抜けしてしまう事があるのと同じように、予告編用に“絵”になる映像だけを凝縮させているのかなという考えが少し頭を過ぎりました。 しかし、観始めると見事にその懸念はどこかに飛んでいきました。全編に渡りどこを切り取って壁紙にしてもおかしくないというような美しい映像の連続。そして、映画の中の駅の構内、学校の教室、緑の生い茂る海沿いの道、雪化粧をした町角、どの何気ないシーンも自分の経験から深層心理に刻み込まれている風景と驚くほどに親和性があり、心に突き刺さるような心地よい痛みを残していきました。ここまで自分の中に持っている景色の記憶を刺激する作品は、実写でも他のアニメでも中々無いんじゃないかと思います。(大げさ!?) 今回、映像を観て美しいと感嘆すると同時にリアルだとも感じました。日常の中にある風景でこの2つの感覚の共存を味わえるのが、この映画の大きな魅力の一つではないでしょうか。 巻末の新海誠監督のインタビューの中で、映画製作の上での一環したコンセプトとして、「実際の風景を写実的に画くわけではなくて、記憶の中の風景を描きたいというのがある」と仰っていました。 人は物事を主観の混じった印象として捉えている。普段の生活の中では、実写の風景から脳の中で何らかの変換がなされて、心に届いてくる風景は実際とは少し異を成しているはず。では、脳の中での変換経路を省いて、その心に映る風景をダイレクトに観客に提示した時、人の心はどういう化学反応を示すか、これは新海監督の壮大な実験ではないかと思えてきました。新海監督は、その心の中にある風景を作り出す秘密の一つとして、描く密度を少なくしていると明かされていました。実際の脳の中でも同じような工程が踏まれているのではないかと思ったり。 僕は大学生の時、街の中心から少し離れた小高い丘の斜面に位置するアパート、南向きの部屋に住んでいました。その部屋で友達数人と夜遅くまで飲んでそのまま雑魚寝し、次の日の朝方、目覚めた時に窓から眺めた景色が今でも忘れられません。もう本格的な夏が間近に迫っていたその季節。朝日は一年でも最も早く昇り始め、街はまだ眠っているかのような静けさを保っているのに、朝靄が微かに残るなか十分な光量がすでに東の空から降り注いでいます。空気は涼やかで気持ちの良い風が部屋に流れ込み、近くの住宅街、遠くに見える高いビルの群れ、公園の緑、それらが新鮮な朝の光を浴びて瑞々しく輝いていました。植物の葉に宿る朝露が黄金色を纏うように。大きく深呼吸したくなるような爽快感がそこにありました。 その窓から見える光景を何故写真に収めなかったのか、チャンスはいくらでもあったはずなのに。。と今でも後悔する気持ちが時々顔を出すのですが、「秒速5センチメートル」に出てきた2つのシーンを連続して目にした時に朧げになりつつあるあの時の光景がハッキリと蘇ってきました。あの時の空気と共に。眺めていた景色は下に貼り付けた1枚目のような感じで、光の加減は2枚目のような印象でした。 ![]() ![]() しかし、もし写真に収めていても、今の自分の記憶の中にある風景とは違っているかもしれません。その写真に写っている現実を見て、もしかしたらあれは幻想だったと落胆するかもしれません。記憶の中だけでいつまでも輝き続ける風景、記憶の中だからこそ美しさを保ち続けることが出来る風景。 それは、その時の気温や湿度、空気の動き、何処からともなく聞こえてくる音、そして自分を取り巻く状況(例えば将来への希望や不安だったり、友達との関係だったり)を加味した気持ちの有り様、それらと連動した感動が実際の風景と混じり合った後に浮き出てくるものだから。 監督は、実際ロケされた所に行っても映画と同じようには見えないと仰っていました。色が淡く柔らかになり、遠くは霞み、光を増すことによって情報量が減らされている。しかし、それを見ている者はリアルだと受け止める。それは頭の中にリアルだと感じる根拠となるいつかの風景の記憶が個々にあるからだと思うのですが、実際に見た風景からその時点での脳内変換に加え、ある程度の時間経過による変化が起こり、映画の中にあるようなタッチの映像に近づいていくのかもしれません。そして、現実に体験した風景と共に結びついている感情もまろやかに、深淵に変容していて、映画を観ることでそれが無意識に呼び覚まされる。だからこの映画の映像を観ているだけで心地良くなるのではないかなと感じました。 新海誠監督作品独特の青や紫、白、オレンジの茫とした光の加減や色合いから、タケシマさんのブログにアップされている写真を連想しました。 ■タケシマさんの写真ブログ・「金魚ノ宙」 そこにある写真は、撮影技術によって実際に見える景色とは異なっていると思われますが、記憶の何処かにあるような、夢の中で観たような不思議な真実味や実感を伴って訴えかけてきます。人間の目にはそう見えないだけで、タケシマさんの写真に写った光景もこの世界に紛れもなく存在している真実の風景であると教えてくれている気がします。 そうすると人の意志を介した新海監督の映像も、写実的ではないにしても実は真実を描き出していると言えるのかもしれません。 ![]() ![]() 何を言いたいのか混乱してきました。(汗) P.S この作品を借りにレンタル店に行った時、“5本で1000円”という張り紙が目に入り、折角ならと貧乏性意識が出て「秒速5センチメートル」以外に「笑の大学」、「天然コケッコー」(ラジオでパーソナリティーが、“天然コケコッコー”って言ってた。気持ちは分かる。笑)、「大日本人」、「ヒカルの5」をなんとかかなりの時間をかけ無理やり選び出しました。何を借りるか決めていなくその場で見たいものを選ぶのがこんなに難しいとは。^^; 後から、ハズレがなくて自分でもビックリしたのですが。 何を選んでも良かったのに結局、ライブDVD「ヒカルの5」以外全部邦画。自覚なしに邦画のコーナーに引き寄せられていて、改めて自分は邦画が好きなんだと気付かされました。僕の中で邦画の勝手なイメージとして、「箱庭的小ぢんまりした扱いやすいサイズであり、それ故細かい所まで気配りが行き届いていて奇麗に整えられまとまっている」というのがあります。作品から滲み出ている日本的な美的感覚が心地いいのかもしれません。良く出来たミニチュアを眺めている時のような。(特に三谷幸喜監督の作品にはそれを強く感じます。)
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2008-04-17 Thu 21:38
4月26日に公開されるいきものがかりが主題歌を担当した映画『砂時計』。主人公の女性を大人時代・松下奈緒、中高生時代・夏帆が演じています。あるラジオ番組の映画コーナーで少しストーリーを紹介していて聴きかじった所、かなり切なくていつまでも頭に残り続けました。 そこでこの映画の公式サイトできちんとしたあらすじを読んでみることに。 ■映画・『砂時計』公式サイト 話の展開に合わせて6つに分けられたストーリー説明が丁寧になされているのですが、もう映画のオチ寸前までそこに書かれているような気がしました。(実際にはどうか分かりません。) 僕はこの映画を見に行く予定がないので、躊躇することなくすべて読み終わると、映画の内容が凝縮された「Story」に思わず涙をこぼしていました。一つの読み物としてよく練られた短編小説でも読んだ感覚でした。映画の宣伝に於いてここまで事細かくストーリーを明かしていて、それだけでここまで泣けて満足できた体験に、ちょっと驚きました。思わぬ出会いにちょっと得した気分。お勧めです。 世の中には宣伝が足りないことにより、世間に知られる前に上映期間が終わってしまう映画が沢山あると聞きました。日本映画が好調といえども映画業界には格差社会に似た構造が生まれていて、お客さんが入る映画と入らない映画の差が拡大し、深刻な問題だと受け止められているようです。 「この映画を見に行こうというキッカケ」を効果的に作り出さなければならない宣伝では、その要素の一つと成り得る“ストーリー”を最大限生かして映画を魅力的に捉えて貰うために、限界ギリギリの所まで話の流れを出さざるを得ない現実的な状況というものがあるのではないかと考えたりしました。 事前情報・先入観なしに映画を観るのが一番なのかもしれませんが、映画館まで観に行こうと判断させるだけの十分な情報がないと何も始まらない訳で、その境目の線引きが難しい所なのかもしれませんね。 |
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2008-03-15 Sat 22:10
またこんな季節がやってきた。前回「恋する惑星」を観たのは、去年の春。ブログを見返すとちょうど1年前の今日、記事を書いていた。冬の緊張が和らぎ春の気配がする頃。また「恋する惑星」を観たくなる。何故だろう、この映画を薦められて初めて見たのが春だったから?ちょっと潤いのある春の空気が周りに漂い始めると、この映画の世界と自分のいる世界がリンクしやすく感じているから? 更にこの映画が似合う時間帯があるとすれば、宵の時間だったり、東の空が白み始める夜明け前だったり、変化の余韻や予感を辺りに留めている時間。何かの中間。境目が曖昧で、何処か浮遊している感覚があり、繊細で直ぐに消え入ってしまいそうな映画全体を覆っている幻夢のような香りを受け取る感度が増すから? 太陽が沈みかける頃、窓をいっぱいに開けて春の甘い匂いを部屋の中に入れる。冬の寒さとは違う、初春の冷たさにこれから訪れる夏への懐かしさ感じながら、僕は恋によって駆動すると言われる惑星を動かし始めた。 恋の期限は、缶詰の期限と重ね合わせられ、恋の行方は飛行機のフライトになぞらえられる。 登場人物たちは、春の宵を颯爽と駆け抜けていくようなイメージが浮かぶ。まるで地球によく似た全く別の惑星にある街の片隅を覗いているよう。そこには一万光年のタイムラグ。彼らの時間が流れ、彼らにしか見ることの出来ない取り巻く世界の美しさがあるのではと思えてくる。 この映画で一番好きな台詞がある。フラれた刑事モウ(金城武)が一人失恋祝いをした後、明け方にフラッとバーに入る。 「“愛は夜明けに終わる”、そんな歌の心境だ。メイを忘れたい。僕は自分に言いきかせた。――」 「――今度入ってきた女性を好きになろう。」 この映画に登場してくる人たちはみんな、普通は大人になるにつれて失っていくはずの汚れを知らない純粋さを持ち続けている。 刑事633号(トニー・レオン)が、石鹸やぬいぐるみ、タオルを人格化して話し掛けることも、 刑事モウが「失恋すると涙を蒸発させるためにジョギングをすると良い」と信じていることや、「“記憶の缶詰”に期限がないといい、あっても一万年ならいいが・・・」と願うことも、 フェイ(フェイ・ウォン)が大きな音で音楽をかけているのは、いろいろ考えなくて済むからということや、刑事633号の部屋へ勝手に忍び込み自分好みの部屋へ変えてしまうことも、 すべて、自然体で自分のストレートな感性、直感に従い、運命に逆らわない天性の無欲さ、謙虚さ、無邪気さ、そんなようなものが彼らの中にあるからではないかと感じてしまう。星の運行を支配している見えない力、それに従って廻っている惑星の上で、不思議な因果に寄り添いながら暮らしている人たち。それらが刑事モウの台詞の中に凝縮されている気がする。 自我(エゴ)を捨て、流れに身を任せながら軽快に人生を泳いでいく。そうすることで見えてくる新たな風景がある。過去にそんな経験は殆どなく、自分には中々出来ないことだから、「恋する惑星」に生きる登場人物に憧れを抱くのかもしれない。新たな風景にも、そこに生きる人たちにも、優美さや爽やかさがある。春の宵に吹く南風のような。。 初めて出会って衝撃を受けた作品があると、僕はそれと同じような作品を何処までも追い求めてしまう傾向がある。宮崎駿監督作品であれば、「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」。新作が出てもそれが自分の思い描く理想と違えば、どんなにいい作品であっても渇望感は消えない。たとえそれがファンのエゴだったとしても。たとえそれがアーティストが最も嫌うことだったとしても。 “あれと同じような作品”というのは、もしかしたら存在し得ないのかもしれない。しかし、ウォン・カーワァイ監督作品には、“「恋する惑星」のような映画”をいつまでも待ち望んでしまう。 そして、月日は流れ、今月3月22日(土)、「マイ・ブルーベリー・ナイツ / MY BLUEBERRY NIGHTS」が公開される。この作品には根拠は全くないけど何処となく「恋する惑星」と同じ匂いがする。「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のテーマは、「旅と距離」。アメリカを舞台に新たな愛の側面を描く監督初の英語映画。普通のラブ・ストーリーに見られるような2人の人間が対峙する単純な構成ではなく、逆に2人の物理的な距離を広げつつ、美しい台詞で心の距離を丁寧に埋めていくという構成。ブルーベリー・パイをモチーフに苦い失恋から出発した旅を、甘い恋の予感で締めくくる、とのこと。 ◆あらすじ◆ 「失恋した私にもう一度恋をする勇気をくれたのは、あなたのブルーベリー・パイだった。」 恋人の心変わりで失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)は、彼の家の向かいにあるカフェに出入りするようになる。店のオーナー・ジェレミー(ジュード・ロウ)と話すことで自分を慰めようとするエリザベス。ジェレミーは彼女のために、毎晩ブルーベリー・パイを残しておくようになる。 2人の距離が縮まってきたかに思えたある日、エリザベスは突然、ニューヨークから旅立つことを決意する。失恋から57日、ニューヨークから1,120マイル、メンフィス。失恋から251日、ニューヨークから5,603マイル、ラスベガス。 そして、旅立ってから半年後、ジェレミーの元に1枚のハガキが届く。 「あなたのブルーベリー・パイは世界一おいしい。」 ジェレミーはエリザベスを探し始めるのだが・・・。 ◆映画の誕生◆ 僕は、ウォン・カーウァイ監督の切り取るアジア独特の空気が好きだったので、どうして今回はアメリカなのかなと思っていたら、それには明確な理由があったよう。 監督:「『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のストーリーは、『花様年華』の短編版に由来しているんだ。6分の短編で『花様年華』に入るはずのストーリーだったんだけど、そのストーリーがとても気に入っていたので、そこでは使わず、ここで使うことにしたんだ。リメイクではなく、広げていく形でね。当時ノラ・ジョーンズと仕事をしたかったから、今回アメリカで映画を作りたいと思った。特に英語で作ろうと思っていたわけじゃないんだ。ただ、主演のノラ・ジョーンズに中国語で話せとは言えないからね。(笑)このストーリーはノラにとてもよく合うから、ニューヨークを舞台に英語で撮影してもいいかもしれないと。」 では、監督とノラ・ジョーンズの出会いは・・・、監督:「実は、ラジオを通じてノラの存在を知った。数年前、映画『2046』のプロモーションを兼ねて台北を訪れていた時、夕方6時くらいにテレビ局に行く途中、タクシーのラジオからノラ・ジョーンズの曲が流れてきた。そこでまず彼女の声を聞いた。渋滞に巻き込まれて、車中何もすることがなかったが、台北の夕景がブルーに染まってとっても奇麗だった。そんな夕焼けを見ながら、ノラの声が唯一の仲間のような心境になっていた。その声がとても官能的でシネマチックだった。かかっていた曲は『Come Away With Me』。ある少女が街を歩いていて、誰かを待っている、というような景色を自然と想像していた。すると、その日の夜、ちょうど同じホテルにノラもワールドツアーで滞在していたことに気付いた。その時はお互いを知らなかった。そんな偶然というか運命の巡り合わせもキッカケとなり、改めて彼女と会いたいと思い、1年後ニューヨークでスケジュールを調整して会うことになった。」 元々は映画音楽を作って貰おうと思ってノラに会った監督。しかし話をしているうちに、彼女が映画にとても興味を持っていること、そして監督の作品(『花様年華』)を痛く気に入っていることが分かっていく。更に、彼女の自然でのびのびとした魅力が映画に向いていると感じる。そこで是非本人に主演して欲しいという気持ちになり、「出演してみないかい?」とノラに聞いてみたそう。彼女に出演依頼したのは、至極自然な流れだったという。 ノラを起用した一番の理由として監督は、魂のこもった彼女の歌声に魅せられたからとも語っている。 「彼女の声は非常に映画的だと思う。素晴らしい楽器のように、様々な表情を持っているからね。目を閉じ彼女の声を聞いているだけでも、そこからストーリーを感じとることができる。そして、都会をさまよう女性を連想させる。それでこの映画が出来ると思った。」 例の「花様年華」用だった短編は、元々真夜中の香港のダイナーで起きる物語。だから今回の映画冒頭部分のダイナーの中で起こったことしかカバーしていない。監督らはそれを膨らませ、ダイナーからT・ウイリアムズの小説を彷彿させる街・メンフィスへ、そして街自体が映画のセットのようで昼と夜全く違った顔を持つ特殊な街・ラスベガスへと物語にアメリカを横断させた。 監督は、旅に出ているアーティストとしてのノラ・ジョーンズのスタイルからインスピレーションを受け、距離をテーマに、旅をベースにしたラヴ・ストーリーを考えたという。 「ノラのスケジュールを見ると、わずか8週間しか空いていなかった。(今回の映画の撮影期間は、2ヶ月。)だから脚本を書くにあたり、限られた時間で何ができるかと考えていた。彼女は有名なミュージシャンで、一年中ツアーでさまざまな場所を訪れている。それならば、彼女が親しんでいる"旅"というシチュエーションで映画を作ろうと思った。」 ◆撮影◆ これまで、ウォン・カーウァイ監督デビュー作「いますぐ抱きしめたい」以外すべての作品の撮影監督を務めてきた映像作家のクリストファー・ドイル。スローモーションや手持ちカメラを用いた躍動感あふれる映像として知られ、ウォン・カーウァイ作品独特の濡れたガラス板に光が反射しているようなしっとりとした映像が魅力的だった。 しかし、今回は、ダリウス・コンジ(映画「セブン」、「デリカテッセン」、「ロスト・チルドレン」などの撮影を担当)がカメラを取った。 これまでの映像表現がどの程度踏襲されているのだろうか。 ◆脚本◆ 初め、脚本家として映画界デビューしたウォン・カーウァイ監督。(香港のテレビ局で脚本家としてキャリアをスタートさせた後に、プロデューサーに映画を作ってみないかという打診を受けて監督に。)これまでの作品で脚本を手掛けてきたが、今回は、英語のリアリティーを追求するために人気ミステリ作家ローレンス・ブロック(40タイトル以上の本を執筆。作品はニューヨークを舞台にしたものが多い。)が脚本執筆に参加。ウォン・カーウァイ監督が書いたキャラクター・ディテール・ストーリーラインを元に彼が、すべての会話と彼が付け加えたい要素を脚本に仕上げた。 脚本を書かず、撮影直前に俳優にメモ書き程度の指示を与え、即興による演技をさせる手法でも有名なウォン・カーウァイ監督だが、今回はブロックと作った脚本をワーキングスクリプトとして、撮影中に俳優と修正を加えていったという。 僕はウォン・カーウァイ監督の、生きている限り影のようについて来る孤独の隣りに座り、詩的にそして静的に世界を捉えているような台詞が好きだ。隠れていた別の側面を見せてくれるようで。今回は? ◆音楽◆ そして、気になるのが映画に使用されている曲。 「恋する惑星」では、コインを入れたジュークボックスからデニス・ブラウンの「Things in Life」 が流れ、DCをセットしたラジカセからママス&パパスの「夢のカリフォルニア」 が流れる。劇中の人たちの行動と強い結び付きを持って何の違和感もなく巧みに、そして惜しみなく映画に音楽が挿入されていたのが印象的だった。また、「恋する惑星」渾身の一曲、フェイ・ウォンの「夢中人」 が、何かが始まる予感を爽快に奏でる。 その曲たちは非常に耳馴染みがよく、POPであるが故に、スクリーンの中で描き出される人間模様と、曲が創り出す世界観に少し相容れない乖離がある。その間を恋をした時に味わうような切なさや衝動、充足感など浮かんでは消えていくひと時の感情が埋め、ギャップを補完する。まるでミュージックビデオの中でドラマが展開しているのを見ている時に、発せられる言葉はこちらへ届いてこないから遠くの世界を眺めているような感覚と似ている。それによって映画全体を夢の中のような、記憶の旅をしているような幻想的な陶酔感が包む。 「留まることのない時間」の儚さや可憐さが浮き彫りにされ、その時間を形成しているすべてのものが愛おしく思えてくる。すると目の前にあるこの時、この瞬間もモノクロからカラフルな光に溢れてくる。 音楽によって、何倍も映画が魅力的なものになっているのは間違いない。 「マイ・ブルーベリー・ナイツ」のサウンドトラックには、アメリカ音楽の新旧を網羅したR&B、ソウル、ロック、フォーク、ジャズを収録。その中には、この映画が撮影されていた当時にノラ・ジョーンズがその体験に大きく影響されて書き下ろした「ザ・ストーリー/The Story」も入っている。この「ザ・ストーリー」は、初めて挑戦する女優業(“どう始めていいのか分からない”)と、その場で即興的に書き綴ってゆくカーウァイ監督の有名な脚本スタイル(“物語がどう終わるのか知らない”)に対する、ノラの不安感を映し出した曲だという。また、『パリ・テキサス』や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ほか数多くの映画音楽を手がけてきたスライド・ギターの名手ライ・クーダーによるインストゥルメンタル・スコアの一部も収録されている。 監督:「撮影を始める前に、主人公・エリザベスが旅をする過程を理解しないとならないから、車で3度異なるルートでニューヨークからサンタモニカまで旅をした。1日に15時間もかかる旅の間に出来ることと言ったらラジオや、持って来た音楽を車で聞くことくらい。道中、窓の外の景色とカーステレオから流れる音楽が意外な形でシンクロし、エリザベスの心の風景を覗くことが出来た。この時の体験がサウンドトラックを形作った。 なぜなら、それぞれの州にはそれぞれ全く違った種類の音楽があって、例えば南の方では主にブルースだったり、ニューヨークの音楽は全く別だったり。基本的に私たちが旅の間に選曲していたオーティス・レディングとかを後で映画に使ったんだ。 そして同じく撮影前ノラに(ロケハンの写真の束を渡して、その写真の雰囲気に合う)いくつか曲を参考として持ってきてくれないか頼んだ。彼女は映画でも使われたエイモス・リー、オーティス・レディング、キャット・パワーなどいくつかを提案してくれた。」 このサウンドトラックについて、ラジオDJ・秀島史香さんがブログに綴られていた。 ■「秀島史香のブログ」・該当記事へのリンク そこで僕も早速聴いてみた。しかし、確かにいい曲ばかりだけど、いまいちピンと来ない。それは僕がこの映画をまだ観てないからだと思う。きっとウォン・カーウァイ監督の描き出す世界を奏で、登場人物の心模様とリンクすれば、曲の持つ意味や表情がガラリと変わり、秀島さんのように「すっかり、虜です。最近、これを聞かずして夜眠れません。」となる気がする。 ◆製作◆ 監督は、「今回僕にとっての一番の挑戦は全編英語でやることだったよ。」と語っている。アメリカを描くにあたり、西洋人監督が歪曲したアジアを描いていると感じていた監督は、単に外国人が作ったエキゾチックな作品にならないように欧米文化に対し正確な表現を心がけ、常に周りのスタッフに確認しながら撮影していった。 「ずっと母国語以外の言語で映画を制作したいと思っていたが、この問題は回避したかった。」 アメリカに対する敬意を払いつつの撮影だったよう。 「東洋と西洋では、物の考え方、捉え方が違うのは当然なことでもある。たとえば、キスすることの意味合いも、西洋人のそれと、中国人のそれとは違うんだ。でも人種を超えて共有できるエモーションが存在すると信じている。」 アメリカで初の英語映画を撮るに際し、今回から色々な変化や工夫があった様子。これまでのウォン・カーウァイ色が、この新たな布陣によって更に磨かれ、スクリーンから滲み出てくるといいな。そして、「恋する惑星」では、歌手でもあるフェイ・ウォンが“フェイ”というハマリ役で最大限の魅力を発揮したように、映画初出演のノラ・ジョーンズが、ミュージシャンの感性を生かしてどんな魅力的で新たなキャラクターを演じているのか楽しみ。 これだけ書いておいて実際に「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を体感出来るのは、DVDレンタルが開始された後だから、来年の今頃になる予感。。いや、久しぶりに映画館に観に行こうか。 そうして毎年、桜の開花日が気になり始める頃に見たくなる映画がまた1本増えるのかな。 ■ノラ・ジョーンズ特別インタビュー映像 (ノラ・ジョーンズ公式サイト内) ■「マイ・ブルーベリー・ナイツ」オリジナルサウンドトラック・特別サイト 【参照:「マイ・ブルーベリー・ナイツ」公式サイト、映画関連サイト、等】 (ただ記事を集めてまとめただけです。すみません。) 完全に自己満足の記事です。^^; |
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2008-01-21 Mon 23:48
今頃になって、年末に録画していた「大停電の夜に」(2005/日)を見ました。見始めてからクリスマスの夜の話だと知って、ちょっと失敗したな、、と思いながらも、ハードディスクの空き容量を増やすために最後まで。
サンタクロースが、東京上空に差し掛かる頃、人工衛星マニアの少年(本郷奏多)は、空を眺めていて屋上から飛び降りようとするモデルの女性(香椎由宇)を見つける。病床の父親は息子(田口トモロヲ)に、母親が生きていることを告げ、その息子は不倫相手(井川遥)に別れを告げた。ジャズバーのマスター(豊川悦司)は、昔の恋人にもう一度会いたいと電話をかけ、そのジャズバーの向かいのロウソク屋さん(田畑智子)は、「あなたに素敵なことがありますように。」とみんなの幸せを願う。 そんな夜に起きた大停電。 それぞれの登場人物はみんな、心に引っかかるものを抱いて一歩踏み出せずに居た。 世紀の終わり、人生の終わり、年の終わり、クリスマスシーズンの終わり。なんでも終わりというものは、人を開放的・解放的な気持ちにさせるのかもしれない。そして抱えている重い荷物を降ろし、身軽になりたくなる。鎧を脱いで本当の姿になりたくなる。旅も似たようなもので、先のことをあれこれ思案しなくて済む”終わり”の連続だから、全く着飾らずに他人でも話しかけることが出来る。 クリスマスが迫った最後の夜と世界の終焉を連想させる緊急事態の暗闇が、彼らに新たな出会いと過去の繋がりを引き寄せ、自然と結び付ける。そして、彼らは隣に居る人に対して正直な心の内を言葉に出すことによって開放してゆく。 同じ時刻に展開されるそれぞれのストーリーは、派手さが無く無色透明なのだが、その中で仄かに浮かび上がってきたのが、今まで誰にも言えずに抱えてきたものを人に聞いて貰った時に味わうような楽になれた感覚だとか救われた感覚だった。あんなに悩んでいたのに人に話したら、そんなに大したことじゃなかったと思えてきて、また歩いていける力が湧いてくる、といった心の動きを疑似体験した気がした。 そして顔の表情が少し緩んだ彼らを、ジャズの音色(菊地成孔氏が音楽を担当)とロウソクの明かりと星空がやさしく包む、そんな映画。 クリスマスの夜が明ければ、またいつもの日常が始まる。しかし、ちょっと心が軽くなり、ちょっと変われた新たな自分でスタートを切る。 小さな終わりと、小さな始まりを常に自分の中で設定し過ごしていると、人生に眩しく映る彩光が増し少し楽しくなるのかもしれません。 P.S こんな時期にクリスマスの話って、どうなんですかね。(^^;)
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2007-10-28 Sun 21:15
昨日、NHK-BS2で放送された『孔雀−我が家の風景−』(2005/中国)をビデオに撮って観ました。
当たり前にある家族の風景、家族の変遷を淡々と当たり前に描いた映画。 普通の人が生きていれば苦しみや挫折、嬉しい出来事、悲しみを抑えられない時、ゆったりした時間など様々な瞬間はあるかもしれないが、100年単位の尺で見れば、それらの浮き沈みはほんの小さなもので、記録されることもなく時の経過と共に消え去ってゆく。結局の所、家族というものを形成し子供が生まれ、その子供が独り立ちして新たな家族を作る。そして子供が出来る。人はそういう風にして過去から未来へ連綿と繋がってゆく大きな歯車のひとつでしかない。唯それだけのこと。 単純だけどそれが生き物の宿命。誰も逆らうことは出来ない。この映画を観てその”人の営み”がいかに尊い事なのか、純粋な事なのか、うっすら見えた気がした。無常の虚無感を心のどこかに抱えながらも必死に生きている”人”の人生に対して、”幸せ”だとか、”喜び”だといった概念を超えた重苦しい愛おしさに似た感覚があった。 人は何故生きる?、生きている意味とは?と考えてしまうことがあるが、別に生きていく上で派生する二次的意味なんて無い、そんなことは所詮取るに足らないこと、生きている事そのものにこそ意味があるのではないかと静かにそして優しく問い掛けてくる。 固定カメラによるワンシーンの長さだったり、視聴者に不親切なくらい不要な説明を入れない展開だったり、客観的に物語を捉えることにより全く飾らない現実の世界が画面の中にあった。 ここで笑わせてとか、ここで泣かせるとか、創り手の意図が気持ちいいくらい出てこなく、観ている者に完全に委ねられた映画で、すんなり物語が心に染み入ってくる。芥川賞作家である河野多惠子さんが、ディテールにこそ人生の喜びや本質は潜んでいるとある番組で仰っていたが、この映画はまさに大きな命題や主張などによって掻き乱されることなく、ちょっとした事で吹き飛んで行ってしまいそうな人の仕草、心の動き、静寂の間などのディテールに宿る普遍的な人生の趣を浮かび上がらせている。 やがて映画が終わりエンドロールが画面に流れ現実に引き戻された時、フワッと包み込まれるような幸福感が舞い降りてきた。生きている。。 普通は映画の中に作られた架空の世界から現実に戻ってくる流れなのに、映画の中で感じていた現実から実際の現実にという流れが少し真新しい感覚。 小学校の時、たまに講堂で開かれていた映画鑑賞会。そこでは小学生に見せるという配慮がなされ結構真面目なテーマを扱ったものが多かったように記憶している。過度な脚色の無い現実を重く地味に描いたもの。ちょっと心が締め付けられるような緊張感を伴った鑑賞時間が終わり、それまで閉じられていたカーテンが一斉に開くと講堂の中に午後の日差しが降り注いでくる。外のグラウンドや校舎がキラキラと白く輝いて、こんなにも世界は光に満ちていたのか、こんなにも開放される心地よい瞬間があるのかと実感する。そして、これは夢ではなく紛れもない現実の世界だと。 その時に味わった気持ちを思い出していた。カーテンが開けられパーッと目の前の視界が開ける。当たり前になっていて見えていない物がある。映画の中に痛いほどの”現実”を見る事によって今いる現実をより強く実感し、今まで以上に周りの景色が新鮮で鮮やかに見えてくる時がある。 P.S 路地裏で食卓を囲む家族とその横でやかんから人知れず立ちのぼる白い湯気のコントラストが印象的で今も心に残る。 ■「孔雀」・公式サイト
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2007-10-07 Sun 23:07
僕の場合は、観た映画を好きになるかどうかは、どれだけ主人公に感情移入できるか、そのキャラクター自身がどれだけ自分にとって魅力的であるか、という部分が大きく影響している気がする。そういう意味で蒼井優さんは、演じられる役柄を見ていると性別は違えど"あんな風に生きてみたい"と思わせてくれる不思議な力を持った女優だ。 『花とアリス』(岩井俊二監督)は、綿密に練られたシナリオや演出、主演2人の好演などによりコメディ映画の傑作だと勝手に思っているのだけれど、蒼井優さん演じるアリスの一挙手一投足が僕のツボにハマッて笑いを誘い、飄々(ひょうひょう)とした人物像に惹かれた。 今回も、紀美子(蒼井優)の親友・早苗が北海道に行かなければならなくなった時、「じゃぁ、私もやめる」とそっと優しさを表現できる所や先生に対して直ぐには心を開かなかったり、先生のダンスに憧れ、大切な夢が出来たけれど表にはあまり出さない所など、不器用だけれど内側には深い考えや強い意思が感じられるキャラクターが魅力的で、蒼井さんが演じることで一点の曇りなく透明感を持ってそれが伝わってきた。(歌手のYUIさんにも同じように感じるところがある。) 更に、今回は、もんぺを履いた何処にでも居そうな普通の田舎娘から一転、フラの衣装を身にまとった時に放つ美しさのギャップが凄くて、これぞ女優の成せる業だと感じた。 蒼井優演じる紀美子の周りで、小百合(しずちゃん)のお父さんが亡くなったり、親友・早苗のお父さんが炭鉱会社から解雇され、その家族が北海道に行ってしまったり、色々大きな変化が起こる。そして、いつも一歩後ろで、それらの現実に向き合い静かにそしてひたむきに夢に向かって進もうとする紀美子がいた。 町の人や家族、友達、仲間、先生の想いが実に丁寧に描かれていて、それが自然と踊りを練習する紀美子の背後に見えてくるような演出は見事だと思う。みんなの想いというのがさり気なくストーリーの中に散りばめられているので、こちらは、無意識に、自由にそれらに考えを巡らせることが出来、紀美子がどんな気持ちで夢に生きているのか想像したくなる。 そして、この映画のクライマックスで、それまでみんなの一歩後ろにいた紀美子がステージのセンターに立ち、渾身のダンスを披露することで胸に秘めた熱き想い、そしてみんなの希望を全身で表現するのは圧巻。これまでのどのシーンも全く無駄がなく、すべてこのラストのダンスに繋がっていったのが観ていて気持ちよかった。 ただ、最後のダンスにて集まった観衆が異常に盛り上がり、随所随所に大きな歓声が巻き起こっていたが、これまでフラダンスという文化がなく見たことが無かった昭和40年代の人々が、あんなに心をオープンにして現代のコンサートのように盛り上がるだろうかという疑問が湧いてしまった。すると観衆が盛り上がれば盛り上がるほど、現実味が感じられなく作られたもののような気がしてきて、気持ちが入っていけなくなった。ダンスはとっても良かったけれど予想していたよりは映画の最高潮で感動できなかった・・・。 僕の住んでるのは田舎なのですが、地元の祭りなどに歌手の方が来て歌っても、恥ずかしさや自意識が勝って、気持ちはあるのにどうやって盛り上がっていいのか分からないような空気が全体としてあるので、常磐ハワイアンセンターでは当時、もしかしたらあんな感じだったのかもしれないが僕の中では嘘っぽく見えてしまった。 「情熱大陸」で紹介された映画のラストダンスの一場面を見た時、蒼井優さんのこのシーンにかける並々ならぬ想いが伝わってきて心動かされた身として、その点だけが本当に残念で仕方ない。 全体的な印象として、この映画は本当にバランスの取れた映画だなぁと感じた。 一つに、自分ではどうしようもない厳しく立ちはだかる現実と、自分で切り開いていくことが出来る未来。その両方が入り混じって描かれていていたこと。その中では、登場人物達のささやかな希望や思いやりが一際輝いて、どんな時も失ってはいけない物として浮き上がって見える。奇麗ごとではなく実感としてこの純粋な想いが集まると大きな力となり、何かを変えることが出来るんだと思えた。 二つ目に、紀美子の兄(豊川悦司)が借金取りを追い返すために橋の上で振り上げた"つるはし"の頭が吹っ飛んでいったような良い意味で振り切れた部分と、言葉なくとも心が通うような抑えて見せる部分が良い具合に織り込まれていた気がした。 先生(松雪泰子)が銭湯に行って早苗の親父さんに飛び掛るシーンや、出発しかけた列車を止めるシーンは、視聴者の期待に十分に応えてくれている所だし、先生が列車で去ろうとした時、生徒達が教わったフラのフリで気持ちを伝えようとしたり、娘の踊っている姿を稽古場で初めて目の当たりにした紀美子のお母さん(富司純子)が、黙って持ってきた小包を置いて去っていくシーンなどは、グッと涙を誘う。 このバランスの良さが、見終わった後の爽快感、満足感に繋がったのではないか。 (映画全体を通して特に大きな役割を果たすダンスの先生を演じた松雪泰子さんは、今回改めて凄い実力の持ち主だと納得させられた。松雪さんの演技によってこの作品が何倍もの力を得ている気がした。) 恋愛が全く描かれない映画は珍しいのかもしれないが、これぞ"映画は、総合エンターテイメントだ"ということを体現している作品、という印象を持った。 P.S 映画が始ってからずっと、常磐ハワイアンセンターが、近年経営が行き詰っている地方のテーマパークのように5年くらいで斜陽を向かえていたらショックだなぁと心配していたのですが、映画の最後に、そこは現在もなお健在だというテロップが出てホッとしました。 つまり、この記事で何を伝えたかったかというと蒼井優さんが、WEB「ダ・ヴィンチ」にて連載企画を持っているのだけれど、昨年の夏ごろから更新が途絶えていたのがつい最近再開されたということでした。チャンチャン。 ■蒼井優・連載企画『TYPEWRITER』 駄文を最後まで読んで頂き有難うございました。 終始涙が溢れ感動したのに、こんな感想しか書けない自分に喝ですよホント・・・。(^^;) |
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| アドリア海の4.A.M. |
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