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2008-02-20 Wed 22:13
ラジオ番組でトークの流れから三谷幸喜さんが、小学校の校歌をスラスラ歌っていた。今でもしっかり覚えていらっしゃって驚く。よく小さい頃の話を覚えていてオチまでつけて語ることが出来る人がいるが、それだけでも凄いのに更に自伝的小説まで出す人も。僕からするとこれは殆ど神業に近い芸当だ。長期記憶に問題があるのか(^^;)、僕はほとんど忘れてしまっている。
![]() もしも子供の頃から写真が今のように身近なものだったなら どれだけ何気ないひとコマを写真に撮っただろう そして、その写真を見てどれだけ埋もれた記憶のカケラを拾い集められるだろう P.S 上記の“何気ないひとコマ”でイメージしたのが、NOMさんが「Plus RELAX photograph blog」で紹介されている写真の数々。 計算され尽くした構図と鋭い感性で搾り取られた時の雫。思考を尽くされた写真の筈なのに、これまで日々の雑念の合間にふと目に留まった日常の光景から受け取っていたハッキリとは掴めない淡い匂いと同じものを感じてしまう。時間の狭間に住む番人が気を抜いた時に現れる場の静寂。時間の風が止み凪が訪れる。そこに立ち昇る枯淡の香り。心の深層にある泉に水滴が一滴ピタンと落ちる。そして、無に寄り添った感性の波紋が音もなくゆらゆら広がる。それらは気付くこともなく遣り過ごしてしまうかもしれない微かなもの。 しかし、本当はその目に映る日常の何でもない一瞬の光景にこそ人生の深い余韻が凝縮されている気がする。時の流れを止めた写真にはそれが鮮明に描き出される。魂の存在と周囲の景色、対人模様が今の状態を維持して此処にある奇跡と煌き。“普通”の中に潜む神秘。それを認めた時の感情の発露と安らぎ。一瞬の“生”の息吹が吹き抜ける。 後から思い返す時、過ぎ去った日々がもし、所詮“邯鄲の夢”であり、幻想のようなものだったとしたら、体験というはっきりした本体よりも、その周りに漂う陽炎(かげろう)のような目に見えない“ゆらゆら”した部分に大事なエッセンスが隠されているようにさえ思えてくる。それはいつまでも消えずに残り続けてゆくのかも。 誰も居ない駅のホーム。昼下がりの光が差し込む廊下。夜、家庭の明かりがこぼれる夏の路地。いつもそんな傍らに“ゆらゆら”は存在している。仄かに伝わってくるからこそ心に沁みる“ゆらゆら”を捉えた写真に僕は捕らえられる。 【BGM】 B'z:「恋じゃなくなる日」 自分でも何書いてんだかと思いますが、FC2からの“ブログ1ヶ月放置の刑”を逃れるために取り合えずアップ。^^; |
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2008-01-12 Sat 21:15
「The Velvet Underground」/「Pale Blue Eyes」(1969) 【1月12日 AM2:11】 あるブログでは、北海道に住む女性が、”吹雪いて視界が悪く・・・、気温は−10℃”と書き込んだ。付けているラジオからは、依然混乱の続くイラクの首都・バグダッドで100年ぶりに”希望のしるし”と願いを込められた雪が降り、一方沖縄地方は5月上旬並の汗ばむ陽気となり石垣島で最高気温26℃を超え、1月に入り54年ぶりに5日連続で夏日を記録、、、と伝えられた。 外は朝からの雨が今も降り続き、比較的大きな雨粒が屋根や地面にぶつかり”ザー”という音を立て、水不足気味だったこの地に不気味な暗闇を作り出す。 鼻の奥を刺激する90%の湿度を持った粘度の高い空気が部屋にまで侵食し、1月の平均気温が6.6℃であるのに対し、深夜だというのに13℃まで気温を上昇させていた。 今は1月。しかし僕はどうしても今、春の長雨の中に身を置いているという錯覚を拭い切れない。ここが日本であるという確証を失いそうになる違和感と異国情緒を覚えながら。 体は、無意識に寒さを探しているのに不意にもたらされた生ぬるい温かさを受け入れているこの状況と重なって、いつかの春先に訪れたベトナムに充満していた心地よい気だるさを思い出す。その時も空は厚い雲に覆われ、しとしとと雨が降り続いていた。舗装されていない水溜りだらけの道。そこをシクロに乗って走り、流れる景色を眺めた。深い霧に霞んだ何処までも続く田園風景。”すげ”で出来たベトナム笠と黒い水牛。幻想的であり、まるでそこだけ時代の歩が止まったエアポケットに入ってしまったような孤独な空間。自分は其処に居るのに存在を許されない異空間。 そして、無限に降り続くのかと思わせる雨が上から僕に覆いかぶさり、見知らぬ遠い地にいる不安と相まって退廃的気分にさせる。すべてを放棄したくなる危険な香りと、もう此処から二度と抜け出せないのではないかと危惧させるほどに惹きつける風土の魔力が漂う。 日本の真冬を否定した空気の緩んだ気だるい夜に味わった何処か異常を予感させる居心地の悪さと不安定感、反対に破滅を裏に秘め湿った雨音と停滞したアジアの匂いにこの身をすべて沈めたくなるような現実感の無い夢見心地。その両面入り混じった感覚は、あの時ベトナムで感じたものと似ていた。 誰かが、この国は亜熱帯気候に向かっていると言っていた。本当にそんな未来を覗き見てしまった気がした2008年初頭、地球の曲がり角。 P.S YouTubeの動画は、映画・『接続 ザ・コンタクト』(1997/韓国)にて、傘を持たず雨に濡れた男女が美しく映し出され、その後ろで流れていた(←記憶がかなりあやふや)「The Velvet Underground」の「Pale Blue Eyes」です。雨が降り続くとこの曲を無性に聴きたくなります。 ■”Pale Blue Eyes” Lyrics/歌詞 (LetsSingIt.com内) |
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2007-12-08 Sat 20:10
![]() ![]() 青空の無い月から見る宇宙。 そこに浮かぶポケットに入りそうな青い地球。 見えないけど見えている自分の現在地。 認識しているけど認識していない現実世界の姿。 僕は今日も日常がこびりついた夕暮れの渋滞に身を沈めてる。 ”アノ場所トコノ場所ヲヒトツニ結ブ限リナイ想像力ガホシイ。” テールランプとよく馴染む光を湛えた空に視線を飛ばす。 唯一確かなこと、ボクハココニイル。 【BGM】 ウルフルズ:「たしかなこと」 P.S 僕は、「木を見て森を見ず」とよく人から言われます。小さいことに囚われてばかり。。時代が流れ、いつか「地面を見て地球を見ず」となれば、人の視点は変わっていくのかな。 ■月周回衛星「かぐや(SELENE)」公式サイト ■「かぐや」画像ギャラリー(「かぐや」が撮影した地球の映像も見られます。) |
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2007-09-16 Sun 18:20
夏が昼間だとしたら、冬が夜。そして、秋が夕方。昼間の強い日差しの記憶を頭の片隅に残しつつ、夕焼け空が広がる澄んだ空気と光に優しく包まれている感覚がある初秋のこの頃。日が沈んでロングTシャツ一枚でいると、”肌寒い”と”涼しい”が紙一重で共存し、どちらに捉えたらいいのか体が迷っている。それが、夏という強い拠り所を失った蝉が感じているような不安を抱かせる。しかし、四方から聞こえ幾重にも重なる虫の音が周囲の空間を無限に広げ、時の流れも忘れさせ静かな夜を際立たせる。そして心を凪の状態にしてくれる。更に、窓の外、遠くには寒い冬が待っていて、ある種の怖さをはらんでいるようでもあり、そこからの距離感を思うと温かさ、安心感も覚える。 個性の強い季節に挟まれ、繊細で淡い色をした変化の季節・秋は、不安と安心の狭間をフラフラと揺れ動くヤジロベエのような心を高い空に漂わせる。 これは、飛行機に乗っている時の感覚と似ているかもしれない。高度1万メートル上空を飛んでいる飛行機。外は気圧が低く気温−50℃の世界。その厳しい環境の中で宙に浮いているという頼りなさ。それとは対照的に密閉された機内でパーソナルスペースを与えられた快適さ。そして首を少し傾けただけで小さな窓の外に広がる星空のような都市の明かり、眼下に広がる雲海から昇る朝日。その非現実的な世界の美しさに危険と官能の香り。 そこには不安と安心が共存している。 不安の中にいる時、安心の中にいる時、客観的にそれぞれの状態を捉えることは難しい。心が”安心”に振れた時、”不安”の外観を見ることが出来、”不安”に振れた時には”安心”の心地よさが実感できる。 同居する相反した気持ちの間を微妙に心が揺らぐことによって人の感覚が、剥き出しになり敏感になる時間。そんな空の上では、余計なものが排除されて頭の中がすっきりと整理され無の状態からあたかも無限にアイディアが浮かび、考えを深められ、イメージを膨らませることが出来るかの如く柔軟に感性が動き出す。色々考えを巡らせる事が苦痛ではなく快感に変わる。旅の帰りならば郷愁と哀愁の入り混じったような快感。 "秋"も"飛行機"も秋空のように澄み渡った心に日常では絶対に得られない俯瞰の世界、別の角度から見た世界をもたらしてくれる。 秋の夜長、音楽を聴きながら本を読んでいると何故「芸術の秋」、「読書の秋」と言われる様になったか分かった気がした。 不安定で水の上を浮遊している心は、歌のカップ、本のカップに水を注ぎ込むと簡単に水と一緒に吸い込まれてしまうから。 支離滅裂な文章になってしまいました・・・。 【BOOK】 本谷有希子:『江利子と絶対』(文庫) 【BGM】 中島みゆき:『流星』、宇多田ヒカル:『Fly Me To The Moon』・『traveling』、JAMES BLUNT:『1973』、サ・チ:『ピュア・パッション』 ■中島みゆき×糸井重里対談・「中島みゆきさん、おひさしぶり。」 |
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2007-06-07 Thu 20:18
![]() ![]() ![]() ![]() 日が暮れ、窓から蛙の合唱と共に僅かな湿り気と水草の匂いを含んだ風が舞い込んで来る。 昼間の初夏を思わせるカラッとした空気とは違い、涼しく滑らかな空気。 空には沈んだ太陽の明るさが微かに残り、吸い込まれそうなグラデーションを作る。 そして、漆黒の山の稜線をくっきりと浮かび上がらせる。 その山の上、ぽつんと光る一番星。 見下ろせば、代掻き、田植えを終え、悠々と水を湛える棚田が幾枚も連なる。 淡く柔らかな空が白く反射した水面は、畦(あぜ)の黒い影によって区切られる。 先ほどまで夕日を映していた水面に、今は一つの光がぼんやりと浮いている。 その光の正体は? 正面にある民家から洩れいずる光なのか一番星の光なのか、一瞬判別が付かない。 しかし、水面の光と自分を結んだ直線の延長線上に一番星。 水面の光が、星の光だと確信を得る。 すると、手に届く距離にある星の分身により空と繋がった感覚になる。 月ではなく、星が水面に降りてきた梅雨入り間近。 太陽に寄り添い決まった時間に現れ、力強い主張をするでもなく一人佇む宵の明星・金星。 ふいに見つけた時、嬉しくてついつい眺めてしまう、そしてその日の終わりに安堵感をくれる、そんな存在。。 6月6日で9周年を迎えた「ほぼ日」での糸井重里さんの言葉 ■「もうひとつ指を折ると10年目」 と、この一番星に共通して 力を入れなくても、ただそこに在り続けることの大切さを感じた午後7時45分。 ■ぼぼ日刊イトイ新聞 |
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2007-04-07 Sat 19:14
先日、家に帰る途中、満開になった桜を見てきました。
![]() ![]() ![]() ![]() さっきまでの花見客が姿を消し、嘘のように静まり返った園内。 突然降り出したにわか雨が通り過ぎ、鼻の中にスーッと入ってくるような澄んだ春の空気だけを残していった。その中を夕日が沈んでゆく。 空はまだ明るさを保っている。しかし、山に遮られた辺りの光は静かに失われていき、桜の花びらの余分な色彩を奪い去る。 水墨画のような世界に桜が淡白くほのかに光る。花びらの透明度は一層増し、桜の持つ妖しげな魔力が立ち籠め、その場を満たす。 どこまでも突き抜けた夕空をバックに桜の木を見上げると、これまで何年も見て来たはずなのに、その記憶が完全に抜け落ち、初めて桜というものに対面したかのような新鮮な驚きを覚える。 枝という枝の隅々までびっしり花が埋め尽くし、木全体が薄ピンクの一つの塊としてそこに厳然と在るという鬼気迫る情景。 僕は圧倒され暫くその場に立ち尽くした。 ![]() ![]() 桜を見た後、車で家路についていると県議会議員選挙のためにアピールをしている選挙カーとすれ違いました。小学生の時、選挙カーについているスピーカーから「ありがとうございます。」と言って貰いたいがために、友達と候補者の方に向かって一生懸命手を振ったり、大声で「頑張ってくださ〜い!」と叫んだりしてたなぁ〜ということを思い出しました。 P.S デジタルカメラ買おうかな。 |
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| アドリア海の4.A.M. |
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